| チューリッヒ回想a−d . 寺 園 徳一郎 私がスイス留学へのインヴィテーションをいただいた相手は、スイス国立工科大学の経済研究所元所長ブルノー・フリッチ教授であり、そのインヴィを受取ったのは留学まぢかの4月10日であった。しかし教授は、現在ヨーロッパにおける数少ないマルクス学説研究家のなかで大学に席をもちうる人の一人であり、最近の著書に『カール・マルクスの貨幣・信用論』(Die Geld und Kredit−theorie)という労作があるので、前以って、私はこの本を読んだり、訳したり、論評したりして或る雑誌に掲載していた。そのころ、また日本でも同系統の本が出て、両書の比較を便ならしめた。立教大学教授・三宅義夫氏の『マルクス信用論体系』(日本評論社刊)である。 そのようなわけで、フリッチ教授は7〜11月の5ヶ月間は調査旅行のためオーストラリアへたたれることを知りながら、敢えて私はチューリッヒ留学をきめたのである。研究課題はチューリッヒ金市場の研究という大げさなものであったが。 チューリッヒでの教授との文通の結果、面会日は6月24日ときまった。7月初旬には教授はオーストラリアへ旅立たれるので、これが最初で最後の面会であった。私のスイス留学の目的は一日にして終ったのである。それは終ったのであって、果されたのではない。これからが独学であった。フランス→ドイツ→北欧三国→スペイン→ポルトガル→イタリー、そして再びチューリッヒという、ヨーロッパ遊学へのスタートであった。したがって、私がチューリッヒ市立の中央図書館(Zentrale fur Wirtschaftsdokumentation)にかよったのは、大方は、これら一連の旅行を終えたあとになる。 教授との面会の日には、それまでに、(1)ノイエ・チューリヒア・ツァイトングという日本でいえば朝日新開にあたるものから問題を探し、(2)三宅氏の前掲書からこの著の論旨を要約し、(3)その他二・三を添附して、以上を箇条書的にならべたて、以って教授を質問攻めの形にしたが、なにしろ外国語が耳なれないので何も分らなかった。 |
分ったことは、(1)ワタクシは金市場の問題にかんしては領域外に立っている、(2)三宅氏の論旨についてはワタクシも同感である、(3)その他のうちの一つについてはワタクシはその方法を知らない、−つまり逃げの一手に尽きたということ位であった。、外国では論争形式が発達していないのか、スイスが鎖国的なせいなのか、日本の小男が攻撃にまわったのがおかしかったのか、私はそこは知らない。 教授がいま直接に貨幣問題を研究していない、ということだけは確かであった。仕方がないので、教授の所属工大の図書館長あて紹介状を書いてもらったら、この館長は、金市場の問題なら市立中央図書館へ行くよう指示した。工大の図書館は内部が大改築中で、図書類は全部そこへ避難させられていること、また隣接の市立チューリッヒ綜合大学もその図書類をそこに同居させてあること、が理由であった。 このように、市立図書館は市民の図書館でありながら、内部は殆ど国立工大(ETH)と市立大学の学生たちによって占められた、いま試験中のように静かな読書室をもつ国際色ゆたかな図書館であった。大学ではほんとに試験中なのかも知れなかった。女子の学生たちは、眼の下がはれたようになりながら数学に悩んでいるのに、往来ならば簡単にキスをする筈の男子の学生たちは助けようともしないでいる。と思うと、或る女子の学生はモノサシをノートにあてて全部アンダーラインをひきながら、要点だけは読んだつもりでいるらしい。さしずめ私は、時計室まえのカード棚−(a) ETH関係1ケース、(b) チューリッヒ大学の東アジア・東ヨーロッパ関係1ケース、(c) 経験経済研究所関係2ケース、(d) 経済学関係2ケース−のうち、c)から貨幣問題にかんするものを私の手帳に書き抜いた。それら(a−d)は、すべて最近5年間に出版された著書・論文の人名索引によるカードであった。 以上のように、フリッチ教授への質問状(1)については、このカード棚のc)に応答を求めるつもりで数冊の書物を買ったが、まだ読んでいない。(3)のうちの一つについては、新チューリッヒ新聞社の編集長(Dr.H.Portmann)に応答を求めることを思いつき、1970年7月7日の新鋳貸法にか |
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