したものであった。便覧の題言で禎造が述べるところによると、蘭癖家の藩主長溥が本書の重要性に鑑み藩費出版を認めるにいたったとある。なお美作の宇田川興斎の校閲をあるが、興斎は化学を本格的に紹介した『舎密開宗』の著者宇田川榕庵の養子である。その出版は従来題言の日付である安政3年をあてていたが、興斎から武谷祐之にあてた数通の手紙から、少し後れた安政6(1859)年の秋から冬にかけてと考えられる。本書は新聞紙一頁大のもの14枚を折帖として一帙に収め、その木版技術の優秀さから、江戸か上方で印刷されたものと思われる。また着色は印刷ではなく、手彩色であるのは正確を期してであろう。その発行部数は多くはなかったと思われるが、のち明治新政府から求められて5部献上している。 こうした研鑚を経て帰藩した彼であったが、藩の財政難その他により事業は縮少されてその担当部門を見出しえず、辞職して郷里波多江村に隠棲し医者となった。やがて彼は農芸化学の実地応用をめざすにいたるが、その準備は長崎遊学期からなされていた。「冨国の要は冨民にあり、冨民の要は勧農にあり」、また医者として
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個人の生命を救うよりむしろ「天下の人命を救はん」(後述する『農家備用』の序)との抱負で各地を廻り指導したようで、当時まとめたものに農家発蒙」6巻がある。明治3年上方にのぼる途中に立寄った備中倉敷の小塩舎・黒金舎(ともに勧農団体であろうか、不明)から『農家備用』前編5巻(前掲の『発蒙』から医法を除いたもの)、その啓蒙普及版として『農薬花暦』折本1冊を出版したが、ともに挿絵いり、総振仮名付きであった。両著に共通して救荒食物の項で澱粉質の重要牲を強調するところなど、蘭学の影響であろう。同年京都府に仕え勧農を担当し、余暇に『農家備要』後編の執筆にかかったが、翌年56才で病歿した。国学者を父にもつ彼は『農業花暦』の冒頭に「それ我 皇大御国(すめらおふみくに)ハ赤道より北二十九度に起り四十度に至れる豊秋津の国形にして地球の根蒂なり」と、新時代への期待と抱負に燃えていたのだが。なおその実家の波多江家(当代は福大商学部教授の俊孝氏)のお話しによれば、彼の筆になる書画がある由であるが、今回は掲載し得なかった。 (人文学部 教授) |