郷土の先覚と遺著(8)
 青 柳 種 信
     −筑前の国学者(その一)−
                 井 上   忠

 先年、筑前の国学者としで知られた青柳信関様の資料が福岡歴史資料館に収めらた。この膨大な資料はその姻戚筋の西新一丁目山崎家に保存されていたが、たまたま同家が岩田屋支点ビル建築のため取壊されることになり、そこでわたしたちが仲介して資料館へ納入を願った次第である。ところで彼のライフ・ワーク『筑前国続風土記拾遺』が昭和48年に地元の九州公論社から、また『柳園(種信の号)古器略考』複製版が51年に文献出版社から、また典稚な古文で万葉調の歌を多く加えた『瀛津島日記」は詳しい註釈つきで、「日本庶民生活資料集成」第2巻(三一書房)に収録されている。地下の彼も亦以て瞑すべきであろう。
 本居宣長により大成する国学は外来の儒・仏の教えを排し、古代日本人の心を古事記・日本書紀の研究により体得し、それを信条として日常生活に生かそうとした。さらに地方の国学者たちは記紀・風土記等を参考にして郷土の古代史を復元しようとした。種信もその一人である。その先祖は「大蔵重信と云ひ筑前国早良郡平群郷飯盛村に住し、世々同郷の司として、兼て飯盛三所大神の祭礼を掌る。平群郷百三十余町の地を領し、後世の子孫に至り、本州御笠郡原田邑に住し、原田氏を称し、太宰の官人たり。」(大熊浅次郎「青柳種信年譜の梗概」)という家柄で、中世の土地所有文書も現存している。それから分れた青柳氏は江戸中期に福岡に出て足軽職をつとめた。種信が国学、さらに考古学に関心をもつにいたったのは先祖の華やかなりし頃を知りたいという願望に出発したのではあるまいか。市内地行に生まれた彼は、参勤交代の折を利用して24才の時に伊勢松坂の本居宣長を訪ねて弟子入りしており、以後毎月2〜3回は宜長に質疑の手紙を絶やさなかったという。
 資料館に収まった物の中に天明3年(1782、彼の17才のとき)志賀島加奈(または叶)浜発
堀の「漢委奴国王」の金印について、後年の種信自身の論と、発見当時の亀井南冥および江戸在府の藩儒村山広の論の写本とがある。天明3年にはちょうど福岡藩で城の東西に藩校を創設している。その西学校甘棠館々長であった南冥は、その有名な『金印弁』で古学派としての学識を存分に発揮し、後漢の光武帝が与えたものに相違ないと断定した見識はみごとであったが、「委奴国」を「ヤマトノクニ」と解し、日本の特定地域を指すとまでは思い及ばなかった。続いて東学校修猷館々長竹田定良は『金印議』で委奴を日本の古号とし、また江戸藩邸の村山は委奴を熊襲のような先住未開人とした。
 種信が『後漢金印略考』を書いたのは文化9年、47才の折で、発見後30年を経ており、その研究も進歩していた。この年彼は日本全図作成のため来筑した伊能忠敬の道案内をしてその学識を認められ、会話が金印におよび、忠敬の求めにより薄庁から問題の金印を捺印した紙が与えられた。この際に忠敬から彼の金印論を求められてまとめあげ、修献館教官の検閲を経て手渡したものである。資料館に入ったのはその草稿で4枚にわたり、虫食いや修正も多く読辛い。種信はその師宣長の説を継承、発展させている。すなわら宣長は「倭」と「倭奴」とを区別し、奴国を日本書紀に儺県(ナノアガタ)・那津(ナノツ)とある所とし、漠然と筑前国となした。これを種信はさらに

  
彼が画いた糸島郡井原村出土の銅鏡とその文字
       −柳園古器略考より−


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