郷土の先覚と遺著(12)
  津田元顧・元貫
     −『石城志』の編著−
                 井 上   忠

 博多に関する最初の歴史的百科事典ともいうべき『石城志』12巻は、医者の親子により江戸時代中期の明和2(1765)年にまとめられた。本書の著者元顧が博多の中市小路(奥村武氏の御教示によれば、いまの呉服町から海へ向う大街路と50メートル道路の交叉点の北西)にすむ小児科医であり、また当時の庶民文芸の粋とされる俳諧をたしなみ、さらに考古癖の持ら主であったことが本書の内容を豊富で充実したものにしている。
  本書巻八で述べられるところによると、津田家の先祖は播磨の武士であったが、医者に転業してこの国に下り、博多の名刹聖福寺の門前町に住んで回生軒と号したという。恐らく黒田氏の筑前入部に従ったのであろう。なお治療のかたわら、いろいろの秘伝の丸薬・粉薬を調合し使用人をして領内は勿論、隣国にまで販完させた。とりわけ回生丹という薬が不思議な効能があるというので、人々に甚だ愛好された。ところが子孫にいたり藩から召されて若殿様の侍医となったので、その体裁上から薬の販売を禁じられた。当今博多津中で調合販売する諸薬はみなわが家の処方で、それを少し変えたにすぎぬ、と回顧している。この子孫というのは元顧の父で、彼はその3男にあたり、一度は分家していたが故あって本家をつぎ、小児科医として名声を博した人である。元顧が序文で語るところによると、博多年行司の懇望もだし難く、本書の編纂を企てるに至ったとする。すでに老齢におよんでいたので、彼が資料を蒐めて口述し、秋月出身の養子元貫が筆記・編集したという。元貫も狂歌をよくし、後には侍医に抜擢された。
 ところで本書の題名とする「石城」とは今日では博多築港区の町名に矮小化されているが、本来博多湾の沿岸一帯までを指した。本書にも題名の由来をといて「むかし博多の海浜に石垣を築きて異賊の襲来に備へけるによりて、かく名けしなるべし」とし、僧万里の『梅庵集』
や朝鮮の書にも記されるとする。僧万里とはいつ頃の人か不明だが、恐らく五山僧の一人で、『梅庵集』はその漢詩集であろう。してみると博多を石城府とよぶのは元寇防塁建設後に大陸からの来航者の間にとなえられ、ついでわが国の漢学趣味の人々の間に通用したよび名であろう。
 本書12巻は地理・神社仏寺・歳事・土産・薬品・人事・雑著の部門からなり、可能な限り根本資料を紹介しながら述べてゆく。まず「地理」の部では自然地理ではなく、大陸に近いという地理的条件によるこの地の歴史が述べられる。王朝期以来の博多を中心にした大陸との関係から始まり、ついで蒙古襲来で元軍の鉄砲による攻撃場面はだいぶ想像が加わっているようである。その後、室町期に再開された日明貿易による博多港の発展と博多商人の活躍、やがて戦国期にこの地は諸将の争奪の的となり戦火で灰燼に帰するが、そこに折よく登場するのが九州征伐途上の秀吉であった。秀吉はこの町の復興を計り、港へ向け南北に貫ぬく縦筋を大路として新しい町割りをさせた。この大路を中心に博多山笠の流れ(東町流、呉服町流等々の)が成立するわけである。この時、地もとの豪商神屋宗湛らが秀吉とその配下の武将を箱崎に招いて連歌会を開いた。黒田如水の叔父休夢の「立ならへたる門のにきほひ」とよんだのに対し、秀吉は附句して「博多町幾千代までやつのるらん(ますます繁栄するであろう)」とよんだ。地もとでは従来、前句を秀吉が、後句を休夢がつけたとするがそれは間違いで、宗湛日記を見ればわかると訂正する。宗湛日記によるとその通りで、さらに秀吉のこの句を博多の者に聞かせなくては、と一座の者がほめたので「上様(秀吉)御きげんよき也」と結んでいる。秀吉にしてみればこの地を直轄領とし、大陸出兵の兵站基地にする下心であった。ついで黒田氏の入部、年行司の役割から市政状態を示す住民統計にまで及ぶ。
「神社仏寺」の部では町民共同体の中心となる氏神櫛田神社をはじめとする諸社、栄西の創建になる聖福寺をはじめ諸寺院におよび、付会の伝承に対しては科学者的な合理主義の眼を光らせる場合もある。また著者の考古癖は自宅の菜園から掘り出された明の国使の碑石を得ては、その霊を弔う


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