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郷土の先覚と遺著(13) 井 上 忠 |
| 戦後間もないある秋のなかば、今は九州歴史資料館につとめるY君と四王寺山に登った思い出がある。中腹から下山したが小路の両側には櫨が紅葉して美しく、黄金なす田の表を背景に、成熟の季節を満喫させられた。「筑紫路の秋は櫨に彩られるというが全く同感だな」と話しながら小川沿いに下り、往還に出ようとすると、角の一軒屋で水車を動かして仕事をしている。川越しにのぞきこむと年頃の娘さんがキレイな帯を織っている。わたし以上にロマンチストのY君が「もしもし、その帯はあなたの嫁入衣裳ですか」と尋ねると、彼女は答えて「いえ、これをしあげて博多の織元にもってゆき金に替えます、それで嫁入仕度をするのです」と。わたしたちはその明答に感心して引下った。さらに櫨の思い出を探ると、幼年時代に今の豊前市にすんだわたしは、ある朝急に顔や手足がむくんで親を驚かしたことがあったが、櫨の下で遊んで櫨負けしたのだった。 かように櫨は今日では九州一円にその残骸をさらしているが、江戸時代にはびんつけ油・蝋燭の原料として、その栽培が奨励されたものであった。福岡藩の場合には為政者の上からの政策に先だち、農民側からの積極的な栽培技術の研究があったようだ。ここに見ようとする那珂郡山田村(那珂川町大字山田)の高橋善蔵がその人で、39才の延享4年(1747)多年の実験結果をまとめ『櫨植遺言書』別名『窮民夜光の珠』と題した。櫨が琉球から薩摩を経て九州各地に伝わったのは江戸初期だが、その栽培が本格化したのはどの藩でも享保以降である。福岡藩の場合にも享保17年(1732)の虫害による大飢饉で総人口の1/3を失ない、農村には荒地・荒畑が拡まった。ここに藩は慌てて農村復興・荒地復旧と藩財源確保をめざし、元文5年(1740)頃より郡奉行管轄下の使役で荒地に櫨を栽培させ、その地を10年間無税とし、11年目から従来の大豆年貢に替えて櫨実代銀で納入させることにした。さらに翌年には藩直営の櫨栽培制度 |
を定め、免奉行(その年の年貢賦課率を定める)・郡代の担当とし、村庄屋・頭百姓を総取締役として往還筋・川土手にまで栽培を奨励し、収穫の櫨実1/3を手入れした請持百姓の収益とした。さらに2年後には農民の自発的栽培を奨励し、苗は藩から無料提供、収穫は全部本人の所有に帰し、藩で買上げることにし、希望者は那珂郡山田村へゆき模範栽培を見学せよ、とある。当時この村の庄屋であった善蔵はここに始まる多くの来訪者の質問に応ずるため、既得の体験に基いて本書をまとめたと思われる。 善蔵がいつ頃からこの問題に関心をよせたかは判らないが、享保大飢饉の2年前すでに同志を誘い隣国(佐賀藩ともいい、薩肥ともいう)へ調査にゆき、帰村後は村人のそしり・笑いを物ともせず栽培研究に没頭し「公務(庄屋役)余力ある時は寝ても覚ても、是を見、是を憶え、筍くも心櫨木にあるのみ」(序言)という状態を続け「多年丹心の工夫をこらし誤りを改め」(奥書)て得た結果を述べるとなす。 まず序文と奥書で繰返し櫨の利益を強調し、ついで本文は28項目からなる。とくに念を入れるのは良種の選び方、良苗の見分け方と育て方、雄櫨の見分け方(雄櫨は小枝が少なく結実期が後れるので当時は全く実らないものと誤解されていた)、接木の注意などである。とくに接木は8種類の方法を述べるが、枝をふやし取実を多くするためで、櫨は「枝数で銀高(貨幣)をとると心得べし」とする彼であるから熱の入れようも違うわけである。その終りに接木法は薩州の功者からある家に伝授されたのを、さらに自分が習得したもので、本来は一子相伝とすべきところ、他の人々にも早く教えたく思い本書に記した。さらに委しく知りたい人は来談するようにと、優れた技術の普及に非常に積極的である。記述はすべて一応実験を経たもので、迷信的な考えを排する姿勢もきびしい。たとえば雄櫨と雌櫨とを交錯して植えねば雌櫨も |
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