櫛田家は元禄から幕末まで6代にわたり福岡藩の儒者として勤め、さらにその後裔が明治以後今日にいたるまで代々教育者として続いている珍らしい家柄である。
 その遠祖は播磨赤松氏の支族で、戦国期に豊前冨来に移住し、迂余曲折を経て角右衛門のとき黒田光之に書記役として200石で仕えた。好学の士であったとみえ、当時藩内の磧学貝原益軒からの書簡十数通が現存する。長男を益軒に学ばせて家
いるが、天保2年と4年にこの件で津屋崎に出張しながら、ともに「文字不通」で取調べをなし得ず引揚げるという失態を演じた。それは漂船乗組員が漢字ではなく、朝鮮文字(ハングル)、すなわち、諺文を使用したためと解される。
 その子駿(号は千里、北渚)は藩校官舎で成長し、徹底した早期教育をうけ12才から修猷館に入り経書・史書の素読をうけ、ついで青少年期に剣道・槍術を、二川相近から書道と音律を、後年には砲術を学んでいるから多才多芸な人であった。天保5年20才の時から3年間にわたり藩費による江戸遊学に恵まれた。江戸では霞関の藩邸に寓居して佐賀藩出身の昌平校教授古賀同庵の塾に通い、また各地から集まった俊才らと詩文会を開いた。後年これらの交友の思い出を『北渚文畧』に記しており、社交性も豊かだったと思われる。
を継がせた。次男渉(通称平次、号は琴山)を益軒の高弟鶴原九皐に学ばせ京都遊学を経て40才をこして6人扶持20石で儒者役として召抱えられ、分家した。福岡藩儒者の特殊な任務としては将軍代替りごとに来朝する朝鮮通信使の藍島での接待と、中国・韓国船の領内への漂流船を筆談して取調べ長崎に送付することで、彼も着任早々この仕事を受持たされた。享保4年45才の時に通信使の一行に  帰国後やがて天保10年秋から半年間長崎遊学をした。その目的は、中国会話と李朝の諺文の修得にあった。まず往途佐賀にたちより江戸での知友武冨元謨を介して藩儒草場珮川に会って朝鮮俗語数十を教わり、長崎の藩邸に寓居した。自作の「年譜」によればまず唐通事馮恵園(帰化名は平野繁十郎)に入門して中国会話と北京官話を修得し、ついで唐人屋敷を訪ね滞在中の医者や貿易商を相手に
加わった李朝派遣の3人の学者を相手に、藩を代表して彼一人で詩文の贈答をし、その内容は『藍島倭韓唱和集』として伝へられている。太平の時代に儒者は漢詩に巧みであることが求められる。
 嘗て彦山座主が「彦山十二景」の詠を本藩に求めてきた際、益軒の求めに応じ当時青年であった彼もこれに応じており、また後年その漢詩人的な感覚でえらんだ福博とその周辺の八景の指摘がある。即ち、竃山暮雪・若杉秋月・筥崎晴嵐・奈多落雁・名嶋返照・荒津夜雨・横嶽晩鐘・博多帰帆といったところで、この八景は以後当地文人の詩歌の好素材とされたところである。
 その後櫛田家は儒者役を継承し3代大吉からは藩校修猷館にもつとめた。5代目の璞(号は緑樹)は養子で文化10年には漂船応接係りを命ぜられて
会話を実習した。それから朝鮮訳官津吉善右ヱ門に弟子入りし諺文を学ぼうとし、「我国ノ秘スル所」として拒まれたのを再三請うて許された。また李朝鮮への漂流体験をもつ中国商人を訪ねてその体験談を聞き、その見聞録を借りて写し、『朝鮮聞見録』の編集に着手した。なお余暇には長崎の異国情緒をも楽しんだ。例えば町民の求めに応じ彼がなした『孝経』の講義の一受講者から宴会に招かれた時である。葡萄酒を出されて下戸の彼には手頃であったとみえ「風味清爽、尤モ口ニヨシ……コノ酒真ニ紅友(めでたい友・よい友)ト称スルニ堪ユ」(もと漢文)と詠んだ。
 帰国後2年を経て本書は藩に献上された。上・中・下・続の4巻からなり180枚に及ぶ労作で、李朝の歴史・地理、衣食住等の風俗、この国の博


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