物学、中国貿易商の漂流記、さらに朝鮮信使を案内した対馬の学者雨森芳州の説にまで及ぶが、なんといってもその特徴は諺文の詳細な紹介である。まず上巻の「方諺考」で「韓語ハ重濁ニシテ清亮ナラズ、且ツ鼻音・喉音二属スル者多シ。訳司ニ就テ学バザレバ其蘊ヲ得難シ、又日本ハ単音ニシテ合音ナレバ国字ヲ以テ訳キ難キ事アリ」とする(諺文は外敵を撃退して成立した李朝の、4代世宗の15世紀半ばに彼みづから民族的自覚の向上をめざし諺文庁を設けて造ったもので、第二次大戦後のこの国の “解放” 以後、国字として復活し使用されていることは周知の通りである)。ついで中巻「諺文ノ事」では「一字一音……其字体ハ梵字ニ依テ是ヲ為ル……本朝伊呂波ノ如シ」とし、「予レ鄙陋ノ浅見ニシテ僣妄ノ罪逃レ難シ」と恐れながらも、字を構成する記号の発音と、その記号を合成してなる字の発音とを詳細に図示して説明する。さらに続巻では60枚に及ぶ天地人・動植鉱物に関する単語の諺文による表現と、その発音、訳語を記してゆく。江戸期の韓国事情を説いたものとしてはすでに寛政年間対馬の通訳小田幾五郎の著『象胥記聞』があり、万般にわたる解説はゆき届いているが、諺文に関しては極めて簡単な解説にとどまる。してみると本書『朝鮮聞見録』はまず父親の実態を償ない、また以後の福岡藩の漂船応接係りのための参考書として書かれた、と見るべきであろう。
 本書を藩に献上した翌天保14年、彼は29才で父の跡役に就任し、以後漂着船のたびごとに出張してその職責をみごとに遂行し、やがて藩主から褒美を与えられている。弘化3年には修猷館訓導兼侍読に抜擢され、藩主長溥や世子長知の江戸参勤、長崎警備のおともをさせられ、また幕末非常時に臨時の仕事もふえ身辺多忙を極めた。また長崎来舶の中国船から得た情報や書籍の内容を江戸遊学中の師や友人に報告することを怠らず、後裔宅には江戸の古賀同庵、伊予藩主の伊達宗城、伊勢の藤堂藩の斉藤拙堂らからの礼状や質問状が多数保存されている。また佐賀の草場珮川からの書簡には精煉所で造ったレーフルタラーン(肝油)3こを注文し、代金発送済とある。当時の藩主は島津家から養子にきて、蘭癖家といわれた人で、駿の写真も撮っている。いわゆるダゲレオ・
タイプといわれる銀盤写真である。彼の未定稿の詩の中には「宰相老公(長溥)手ヅカラ印影鏡ヲ以テ吾ガ真ヲ写シ、之ヲ賜ウ。恭々シク賦シテ恩ヲ記ス」と前書きしたものがある。
 慶応4年に辞職して春萍(春の浮草)と号した。40才未満で内障眼になり、文字通り奮闘の生涯であった。他に『続通鑑綱目辨解』10巻を藩主私費で出しており、多くの詩を遣した。その没後、豊前の村上佛山はこれを評して「真の儒者の詩で、詩人の詩ではない」と評している。その内容が現実の社会、人生を対象にしていることを、指摘したのである。
                    (人文学部 教授)

 自然保護と開発

     −イリオモテヤマネコかヒトか−

                   浅 野 直 人

 自然保護への関心の高まりにつれ、開発との調整が問題とされることが多い(「開発と環境」環境法研究第11号有斐閣、「環境と開発」スコープリポート5巻環境情報科学センター、「公害総点検と環境問題の行方」ジュリスト総合特集15号有斐閣)。このほど、機会を得て、西表島で、この問題を考えることができた。
 琉球列島南端の西表島は、90%以上が森林(ジャングル)で、マングローブ群落やアダンなど本土には見られない植物、セマルハコガメ、カンムリワシなどの貴重な動物が生育・生息し、さらにもっともネコの祖先に近い生きた化石といわれるイリオモテヤマネコは、世界中でもここにしか生息しない(なおこのヤマネコについては、今泉吉典「イリオモテヤマネコの発見」小峰書店がくわしい)。このヤマネコは年々減少しているとされ、一説には15頭とすらいわれる。そして、ヤマネコ保護のためには、島の人口は数百人が限度であって、これ以上の開発はすべきでないとする学者の主張もある(Leyhansen,P.,Facts about Iriomote Island−このレポートは読売新聞53年



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