![]() ヴァティカン美術館のラファエロの間、例の『アテナイの学園』の壁画のある一室の天井には、その一隅を占めて“フィロソフィア”が女神の姿で描かれている。女神は書物を緑と朱と、緑のは左膝に横たえ右手で押さえ、その左端にちょうど直角をなすかたちで朱色の方を立ててその左肩を左手で支え、白い玉座に幾らか右半身の姿勢、視線を遠くやって腰かけている。天使が二人、青地に金文字の四角の標語板を肩に背負って、左右に控えている。右に causarum 左には cognitio とある。“諸々の原因の認識”というわけだ。2冊の書の緑のには naturalis、朱色のには moralis とある。“自然についての”と“人の生き方についての”というのである。16世紀の悠長を想っているうち、「この書物を開いてみたらどうなのだろう」という考えがふと浮んだ。そしてこの考えは「中は恐らく白紙のままで、だからこれは書きながら読む書物に違いない」という何とも知れぬ考えへと続いて行った。しかし私はこの考えが気に入り,しばらくは得意になって人ごとに語って聞かせたのであった。これはもう20年近い昔、ある画集を見てのことであったが、機会を得て昨夏実物に接した折りにも依然変らぬ印象であった。当時、中が白紙の書物というのが一寸した流行りだったので私の鑑賞の秘かな真実とやらも、豈企らんや、実際の出所はそんな所だったのだろう。 |
思えば一時の流行も陳腐な人生の中に案外の痕跡を残すようだ。 それはそうと、その一人合点の感想のことだが、案外いけるかも知れんぞと近頃思ったのである。という次第はこうである。現代では「読む」といったら「何を」であるかは殆ど自明である。書物や手紙、文字・文章をと、まあ人は思う。それらは読もうとする対象であり読まれた成果でもあって読むことと不可分だから。しかし文字無き所謂有史以前においてはこの間の事情はどうだったろうと考えたのである。そうすると、人類は自然の運動をたどたどしく読み人の行為を営々と心に書き留めていったろう。つまり、読むことはその書きしるしと同様、人類が人類になるために最も必要な愚鈍と明敏との中で同時進行した。そしてその所産として文字をもつ新時代を獲得したのではないか。そんなことが想像されたのである。 子どもは文字の習いたてに実にたどたどしく読むものだが、してみると、それはまさに個体発生における系統発生の反復ということになるだろう。かくていかなる個人も、すらすら読むべきだとは言え、たどたどしく読む過程を省略出来ないわけである。他方、同じ読むことでも文字もつ時代にはそれ特有の困難が生じていよう。しかし何事も「習うより馴れろ」で、その最適の土俵は、言葉の揺藍期、万葉の時代に求められよう。その巻の四に“白妙の袖解きかへて還り来む、月日を數みて往きて来ましを”という歌がある。以下「よむ」というのは“ぬばたまの夜渡る月を幾夜經と、數みつつ妹は吾待つらむぞ”(4072)の歌と同様、戀の逢瀬のために月日や時刻、自然のしめす順序を数える歌となっている。数や順序という最もつつましいしるしが、人間がその全エネルギーを費やすその中に位置づけられ、よまれているのである。エネルギー不滅の法則が法則であり続ける限り、「読む」ことは失なわれるべくもないのだとそれらの歌は語るもののようだ。読むことは、人間の行為全体、喜怒哀楽のすべてへの、その為こその読みとして、往にし方もあったし今もあるのである。かのヘシオドスの『仕事と日々』の書かれた理由もそこにあろう。暦は日數みの転かとも言われるのである。童謡「お正月」といいロケット発射前の秒読みといい、すべてはエネルギーへの点火とその燃焼への期待として、読む手立ての読み |
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