ある別刷 小野庸

重大な発見であるとして直ちに印刷に廻され、1896年1月1日にでき上った。Röntgenは直ちに、この別刷と夫人の手のX線写真のプリントを各方面に送ったから、福岡大学図書館にあるのは、その時の一部であろうと思われる。
 1月4日、ドイツ物理学会創立50年記念祭が Berlinで開催されたので、長岡半太郎が出席し、X線に関する研究の概要を日本に送っている。
 X線発見の第一報は、地元でなくWienの1月5日付Die PresseにEine Sensationelle Entdeckung(センセーショナルな発見)という見出しで報ぜられたが、これはその後のどの報道よりも正確であった。その理由は、Wienで物理学定例研究会が開かれており、Röntgenの同僚であったWien大学教授F. Exnerが、席上で送られてきた論文と写真を紹介した。

 数年前の秋の日の午後、図書委員の三好教授が、10頁位の小冊子を持って私の室に現われた。「ねえ、これどう思う、図書館に置いたらいいと思うけど」とそれを手渡した。それは古い論文の別刷らしかった。横文字、それもこの頃は遠ざかっているドイツ語である。しかしその標題をみて驚いた。
 EINE NEUE ART von STRAHLEN. von DR. W. Röntgen, WÜRZBURG, Ende 1895. (新しき光線の一種)とあり、表紙を開くと「Würzburg 物理医学会々報」,本文には「螢光はこの装置から2メートル離れても認め得る」という記述がみえる。その表紙の上端に、Röntgenの筆蹟であろう1896年、医学関係の誰かに贈呈されたと思われるサインがある。
 これは90年前の、1895年11月8日金曜日の午後4時頃、南ドイツ Würzburg大学物理学教室の
別冊画像 丁度このときPrag大学物理学教授E. Lecherが帰省しており、この会に出席してX線のことを知った。そして彼の父はDie Presseの編集長Z. K. Lecherだったので、迅速正確な記事となったのである。
 しかしこの正確な報道に、たった一つ、極めて大きな間違いがあった。それは Röntgenの名がRoutgen(リュートゲン)になっており、私がそのコピーで調べたところ、3箇所ともそうなっているから、単なる誤植ですまされる問題ではない。
実験室に於いて発見されたX線に関する最初の論文であり、この研究によって、Wilgelm Conrad Röntgen(1845−1923)は、1901年、第1回ノーベル物理学賞を受けた。このとき Röntgenは56才,München大学物理学教授に転じていたが、ノーベル賞金はX線を発見した Würzburg 大学に寄付した。
 Röntgenが撮影したBertha夫人の手の像は、世界最初の人体X線写真として、その乾板は彼の出生地Lennep市のRöntgen博物館に保存してある。
 X線研究についてのこの論文は、12月28日付で Würzburg物理医学会に提出されたが、年末であ
ったので口頭発表は行われず、

 一方でX線は興味本位にとり上げられ、フランスのLa Natureは、不透明物体の内部が撮影できるということを誤解し、家の内部が透見されプライバシーが冒されるとか、婦人は安心して街を歩けなくなると書いた。
 Röntgenがこの栄光に到達するまでの道は、決して坦々たるものではなかった。17才Utrecht高等学校2年の時、学校と友人のトラブルに巻込まれて放校処分を受け、Apeldoorn工業学校に転じた。その後高校卒業資格(Abitur)がなくても入学できたスイスZürich工業大学に学んだ。卒業のとき物理学教授A. Kundtにすすめられ


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