図書館資料紹介No.2 大槻文彦「言海」について

 大槻文彦は弘化4年(1847年)、江戸の木挽町で仙台藩士大槻盤渓の三男として生まれた。父の磐渓は漢学、詩文に通じ「孟子訳解」などを著した儒学者で、祖父・玄沢は「蘭学階梯」や「重訂解体新書」などを著した蘭学者であった。そのような環境のもとに生まれた文彦は学問好きで幼少より漢文詩文を学び、江戸開成所では英学を、仙台に移っては藩校の養賢堂で蘭学、数学を修めている。後に「言海」の編纂という大仕事を成し遂げたので、当初から優れた国語学者と思われがちだが、そうではなく、文彦が書いた「ことばのうみのおくがき」には「おのれは漢学者の子にて、わずかに家学を受け、また、王父が蘭学の遺志をつぎて、いささか英字を攻めつるのみ。国学とては、さらに師事せしところなく、ただおのが好きとて、そこばくの国書を覧わたしつるまでなり」とある。
 ところで、19世紀欧米諸国におけるナショナリズムの展開は、各国に国語の大辞書を生み出させた。ドイツではグリム兄弟が「ドイツ語大辞典」の刊行を始め、フランスではリトレの「フランス語辞典」が出版され、アメリカでは「ウェブスター英語辞典」の改訂が進められ、イギリスでは「オクスフォード英語辞典」の編纂が企画されている。
 このような状況の中で、明治の新政府は、近代国家として文教政策の確立のためには国語辞典の整備が必要と考え、10人ほどの国学者を動員し明治4年には「語彙」という国語辞書を刊行したが、「エの部」の後は編集委員の対立で中断してしまった。このため一人で作業を進めたほうが良いということになり明治8年、大槻文彦に国語辞書の編纂を命じた。文彦は大政奉還の際に藩のために奔走し、後に明六社に参加したことからも推察できる通り、日本人としての強いナショナリズムが彼の使命感を燃え上がらせ、17年もの間日本辞書編纂という一事に邁進できたといわれる。
 作業にあたって当初の予定では従来の国語辞書から語を集め選別し、足りない分は洋辞書から採り、それを西洋の近代辞書に倣って構成すれば、新時代の国語辞書ができるだろうと思っていたようである。ところが実際取りかかってみると、意味、語源、品詞、動詞の語尾変化等に不明な点が多く、思惑とはかなり異なる現実に直面している。その心境を「言葉の海のただなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、ただ、その遠く広く深きにあきれて、おのがまなびの浅きを耻ぢ責むるのみなりき。」と記している。それからは祖父の「遂げずばやまじ、の精神なかるべからず」の言葉で自らを律して奮闘努力の結果、明治19年「言海」の草稿は完成している。しかし、すぐには出版されず、稿本は2年もの間文部省に保管されたままになった。やがて、自費出版の約束で稿本を下賜されることになり、明治24年に「言海」の刊行が終了するまでの2年半の間は、昼夜兼行の全面改訂にちかい校訂作業を行うこととなった。
 「言海」のモデルとした辞書はウェブスターオクタボ版で、文彦は「言海」巻頭の「本書編纂の大意」に辞書の編集方針を次のように記している。固有名詞や専門語は採らず、あくまで普通語の辞書とし、熟語は別の一語となっているもの以外は採らない。(あかひげ、いしばし等は採り、まつやま、すぎばやし等は不採用)動詞、形容詞、助動詞は本体のみで変化形はあげないなどである。また、近代的な辞書に欠くことの出来ない(1)発音(2)語別 (3)語源 (4)語訳 (5)出典の5つの項目についても述べている。その中で、説明に疑問が残ったり納得が行かなかった場合には、「−トイフ、ハイカガ」、「−ノ義カ」、「或伝−カト」など記している。そして、まだ体系的に十分でなかった文法を整理し「語法指南」として詳述した。集録にあたっては和語、漢語、外来語の日常語となって →(次頁につづく)


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