漢詩の歴史

―平安~安土・桃山時代―

  平安初期は唐風文化の全盛期で『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』の勅撰詩集が編纂され、嵯峨天皇を筆頭に小野岑守、菅原清公らが輩出された。新しく舶載された中国詩集の影響で詩句も豊富になり、新傾向の詩風や詩体が受容された。詩の内容も拡大し、奈良時代の五言詩から七言詩へと移行するとともに、長編の楽府や雑言体の詩も急激に増加し、填詞も生まれてた。なお空海には『性霊集』のほかに六朝から初唐の詩論を集めた『文鏡秘府論』もある。 承和期(834~848)に『白氏文集』が渡来し、邦人の嗜好にかなったため模倣するものが多く、詩風が完全に一変。『都氏文集』の都良香、『田氏家集』の島田忠臣を経て、『菅家文草』『菅家後集』の菅原道真により、自己の感情を率直に表現する日本固有の漢詩が生まれたが、日本語風の語法が潜んでいる。 天暦期(947~957)の大江朝綱、菅原文時や、寛弘期(1004~12)の大江匡衡らの華麗な作風は『扶桑集』『本朝麗藻』などによって知られるが、その秀句は『和漢朗詠集』に収められて人々に朗誦された。 中世には貴族の間で作詩、連句の会が催されたが、京都の五山文学が中心をなす。前期には虎関師錬、雪村友梅、中巌円月らが登場して宋詩が尊ばれ、義堂周信、絶海中津によって最高峰に到達し、中国の詩に比肩しうる境地に至る。その後は惟肖得巌、江西龍派や一休宗純らの文学僧が出たが、あまり振るわなかった。この時期には唐宋から元の詩人の集が五山版として印行されたが、一般には『三体詩』『聯珠詩格』『古文真宝』などの通俗書が教養として広く読まれた。