13.太宰府博覧會目録(外) だざいふはくらんかいもくろく

枡型本一巻一冊 明治六年(1873)四月刊 荒巻武七(あらまき・ぶしち)、
 小野田次三郎(おのだ・じさぶろう)、安藤圭次郎(あんどう・けいじろう)板

所蔵情報(太宰府博覧會目録(外)だざいふはくらんかいもくろく)
表紙写真(太宰府博覧會目録(外)だざいふはくらんかいもくろく) 内容写真(太宰府博覧會目録(外)だざいふはくらんかいもくろく)

 明治初年は日本国内における博覧会ブームの時代でもあった。きっかけは慶応三年(1867)のパリにおける第二回万国博覧会に江戸幕府が正式に参加した事に端を発し、明治四年(1871)には東京九段下の大学南校で、博物館建設の為の博覧会が催され、以後、全国各地に同様の会が頻りに開催されることになり、明治六年(1873)には太宰府博覧会が執行されている。
 天満宮文庫に現蔵される、その折の広告文を見ると、まず欧州における文明の象徴ともいうべき博覧会の意義を述べ、我国においても東西二京を始め、各地に盛会を見ている旨を記し「我太宰府ノ如キ、曩(サキ)ニ鎮西ノ一都会タリシモ、物換星移(モノカハリホシウツリ)風習汚下シ、遂ニ今日 ノ衰退ニ属ス。嗚呼遺憾ノ至ナラズヤ、抑(ソモソモ)新暦三月二十二日ハ即チ旧暦二月二十五日ニシテ菅公ノ祭日也。因テ官許ヲ得、小博覧会ヲ設。一ツニハ固陋ノ人民ヲシテ知覚ヲ開キ、二ツニハ以テ寒郷ノ景次ヲ昔日ノ盛華ニ復サント欲ス。即、三月二十日ヨリ乃至四月二十日会場ヲ開キ…」と述べられるのは、当時天満宮の衰退の様子と関係者のあせりともとれる困惑の状とが偲ばれる所だが、同年の天満宮日記には盛会で五月十日迄日延された旨が記されるそうで、主催者もまずは安堵の思いであったろう。以上は「とびうめ」第56号に載る文化研究所員河野圭美氏の文章による。
 本品は、その時の出品目録で、枡型本、青絹糸飾り綴じの一冊。表紙は共紙で飛梅の姿を藍摺りにする。初二丁分は天国剣や追儺面 ・雲版など有名な宝物類二十三点が図示され、その後十丁にわたって西高辻 、大賀 、鷹取 、その他百三十名に及ぶ諸家の好古蔵品類の出品目録が附され、会主は「尾崎臻 、西高辻信厳 、三木隆助」の三氏、版元は「荒巻武七 、小野田次三郎 、安藤圭次郎」の三氏が連記されている。