19.和漢事類蒙求(内) わかんじるいもうぎゅう

大本二巻二冊 (筑後)重富鼎(しげとみ・かなえ)著 嘉永七年(1854)刊 板元未詳
  木活版 有界9行18字

所蔵情報(和漢事類蒙求(内)わかんじるいもうぎゅう)
表紙写真(和漢事類蒙求(内)わかんじるいもうぎゅう) 内容写真(和漢事類蒙求(内)わかんじるいもうぎゅう)

 「勧学院の雀は蒙求を囀る」の古諺にもある通り「蒙求」は我国では古くからよく読まれた漢籍の代表格の書物であり、「千字文」や 「和漢朗詠集」などと共に、いわゆる幼学書として親しまれ続けて来た。特に「蒙求」は唐の李澣(り・かん)が中国上代から南北朝迄の有名人の言行を集めて人名を二字、その行状を二字という僅か四字の字句に縮め「孫康映雪、車胤聚蛍」のように一対づつ全部で五百九十六項にまとめ、しかも事柄の相類するものを一句おきに韻をふんで、朗唱しやすいように構成するので、特に古人の言行に学ぶことを大事とされた儒教的学問の場では、極めて重宝された書物でもある。その後宋代に徐子光(じょ・しこう)がそれぞれの項目に補注を施したものが「補注蒙求」として行なわれており、我国でも、それに効って江戸期には木下公定(きのした・こうてい)の「桑華蒙求」、岸鳳質(きし・ほうしつ) の「扶桑蒙求」、伊東有隣(いとう・ゆうりん)の「国字蒙求」等が作られ、刊行されているが、本書もその類の一つで、「桑華蒙求」と同じく我国歴史上の人物・逸話と、それに類する中国の人物逸話とを対の四字句、 百七十六対にして示し、その補注を附したもの。例えば「尊氏誦経 崇岳祷神」の如くに四字句を題し、それぞれの逸話を補注として記している。
 本文は九行十八字詰の木活字で印刷するが、広瀬淡窓(ひろせ・たんそう)、菅原雄(すがわら・ゆう) の跋文は整版である。恐らく著者重富縄山(しげとみ・じょうざん)の家塾等で作った木活字による私家版の一つであろう。本書もその塾生に向けた教科書の一つとして作られたものか。  重富鼎は号を縄山。淡窓門人。後に江戸を出て、佐藤一斎の門に学び、生地田主丸に家塾を開くが、後に明善堂教授となり、明治七年(1874)六十九歳で没した。
 本書は巻末に「嘉永七年甲寅十二月二十一日重富鼎持参贈之 柘植印」と墨筆識語がある。柘植は久留米藩の重臣信厚か、その長子伝八であろう。信厚は和漢の学をおさめ、特に和歌は大隈言道に学んで歌名高く、文久三年 (1863)没。伝八は明善堂教授となり明治三年(1870)没。今、そのどちらかを明らかにし得ないが、縄山から直に出来たばかりの本書を贈られたものである。