22.九州繪圖(外)きゅうしゅうえず

横版一舗(57.5×85.4cm) 天明三年(1783)八月版
 長﨑勝山町 富嶋屋文治右衛門(とみしまや・ぶんじえもん)板 着彩版

所蔵情報(九州繪圖(外)きゅうしゅうえず)
表紙写真(九州繪圖(外)きゅうしゅうえず) 内容写真(九州繪圖(外)きゅうしゅうえず)

 長崎は当時唯一の海外への窓口でもあり、幕府直轄の地ということもあって、出版に関しても独特の様相を示している。その始まりは地図の刊行にあり、やがては異国趣味豊かな唐人・阿蘭陀人あるいは唐船・阿蘭陀船等見事な色彩の所謂長崎版画が盛んに板行されて、土産物として珍重された。早くは宝永・正徳頃の刊といわれる「長崎大絵図」に「東浜町竹寿軒中村惣三郎改板」の刊記があるのが現存する物の中で最も早いもののようだが、その後、地図では安永頃の富嶋屋大畠文治右衛門辺りから盛りとなり、以後、文錦堂、大和屋、梅香堂などといった版元が地図と版画の出版にそれぞれ励むことになる。
 八僊堂(はっせんどう)画の「改正長崎圖」(30番)などは、延享二年(1745)の刊記があって明確な京都板であるゆえ、尚、宝暦前後迄は、長崎における地図の刊行などは、まだ黎明期にあったと見ておいてよい。
 本図はその富嶋屋による、北は壱岐・対馬から南は種子・屋久島を含む九州九カ国の絵図で、全体に薄い代赭色を摺りつけただけの地味な彩色図となっているが、この後、文錦堂に求板されてからの同図は更に二、三色を増したはなやかな物になる。