5.南冥亀井先生遺稿(内) なんめいかめいせんせいいこう

半紙本一巻一冊 亀井南冥(かめい ・なんめい)撰 牧園茅山(まきぞの ・ぼうざん)編 天保二年(1831)序刊 板元未詳

所蔵情報(南冥亀井先生遺稿(内)なんめいかめいせんせいいこう)
内容写真(南冥亀井先生遺稿(内)なんめいかめいせんせいいこう)

 海西の詩豪と自他ともに許した 南冥であったが、その詩文集は遂に江戸期にまとまって板行された事はなかった。唯一、本書のみがその板本である、といっても、序迄いれても僅か八丁のみの薄冊、コヨリ綴じの共紙表紙、四ツ目の綴じ穴なども見えないので、きちんとした表紙がつけられた形跡もない。巻首一丁の序文は亀門の高弟で本書の編著者である柳川藩儒牧園茅山の撰文で、天保二年(1831)三月茅山が江戸出役の還途、大坂の旅宿で見出したという南冥の書懐二十四首を板行させたものという。或いはその刊刻も大坂で行われたものかもしれぬが、簡略な製本ぶりは、博多板の趣きも十分にあり、存疑の一本として置く。
 南冥自身の引によれば唐僧禅月師の山居の韻を用いて所懐を述べたものといゝ、本文中、「其九」詩の引に「是歳改元寛政」とあるので、寛政元年(1789)の成であることもわかる。但し巻首の引には「禅月所黜」の文字が見えて、一時その地位からしりぞけられた経歴を持つ禅月師の境遇に自らを重ねた作のようにもとれるが、有名な南冥の廃黜は寛政四年(1792)の事ゆえ、これは単なる暗合か、或いは寛政元年(1789)のこの頃既に身辺にそのような予兆が生じていた故のことかは、なお後考を待つ。
 また「其九」の詩には「聖朝合有龍雲遇 文命方兼鳳暦新」の文字があり、南冥が松平定信の改革政治に期待すること甚だ大きかったことが、ここにも鮮明に記されていて、その廃黜の因を寛政改革に求める事の不当性を証している。南冥の定信賛は「白川城外南湖詩二十韻」(48番)への寄稿にも明らかである。
 尚、この二十四首は葦書房刊「亀井南冥昭陽全集」第八巻上に収まる「南冥前稿四」及び本館所蔵の「南冥先生七律詩集」にも採られているが、何れも写本であり、この板本は収められていない。