7.孝子正助傳(外) こうししょうすけでん

半紙本一巻一冊 竹田春庵(定直)(たけだ ・しゅんあん ・さだなお)撰  井土鋸谷(いど ・きょこく)補遺 
 安政三年(1856)板 板元未詳 元袋附

所蔵情報(孝子正助傳(外)こうししょうすけでん)
内容写真(孝子正助傳(外)こうししょうすけでん)

 藩内宗像郡武丸村の正助のことは、筑前の孝子譚の内、最も有名な話柄であり、その最初は藩儒竹田定直(たけだ ・さだなお)の撰文になる「筑前國宗像郡武丸村正助傳」一冊(29番)が京都の書肆柳枝軒(りゅうしけん) (これは益軒著書類の板元として馴染があった)から享保十五年(1730)に刊行されている。その後、寛保三年(1743)刊の「筑前國孝子良民伝 後編」、更に寛政の改革の一環として官版で刊行された「孝義録」中の一篇等に収められ、文化三年(1806)にはその五十回忌に正助の木像が作られ、檀那寺の藤原村淨蓮寺におさめるについて、その略伝を山崎普山が筆記し、例の薬院の推移軒に彫刻させ、一枚摺りと して配布した。3番がそれである。同時に武丸村大庄屋伊豆善右衛門俳号泉左(せんさ)によって追善句集「孝子五十回 雪の比」(38番)が編まれた。続く天保二年(1831)の七十五回忌は福岡の徳栄寺に営まれ、追福の百韻一巻が残る。そして安政三年(1856)の百回忌を迎えて、本書及び追善句集 「武丸集」一冊が刊行されている。本書は藩儒井土鋸谷の手によって、春庵の伝、竹田梅廬の碑銘(安永六年撰)、官版「孝義録」、普山の略伝等を節略し、簡にして要を得た伝記となっている。
 刊記 ・奥付等はないが、版面は疑いない地方版のそれであり、恐らく萬玉堂その他の書肆の手になるものと思う。