原 益 (かいばら・えきけん)

寛永七年(1630)〜正徳四年(1714) 


  黒田家の家臣、貝原寛斎の五男として城内東部に生まれる。名は篤信、字は子誠、号は柔斎、損軒、晩年に益軒を通称とする。
 幼少の頃より勉学に優れていたが、家が貧しく父の職が変わるたびに町内や山村、農村を転々としたことや、自身の浪人生活の体験から、後に「民生日用の学」を著す。
 十九歳で二代藩主黒田忠之の御納戸召料方として仕えるが、二年後に忠之の怒りにふれ以後七年の浪人生活を送ることになる。二十七歳の時、父の取りなしで三代藩主光之に出仕、藩費による京都遊学で、 山崎闇斎(やまざき・あんさい)、松永尺伍(まつなが・せきご)らの多くの学者と交わる。
 藩の文治主義政策のブレーンとして佐賀藩との国境問題にも奔走し、藩命による「黒田家譜」の編纂を任されるなど重要な役目を担っている。その後、自らの発意で「筑前国続風土記」の編纂にとりかかり、甥の貝原恥軒(ちけん)や竹田定直(たけだ・さだなお)の協力を得て、十七年の歳月を費やし完成した。
 益軒はまた、「こよみくさ」「日本歳時記」(27番)を編纂した恥軒を世に送り出すきっかけをつくっている。若き恥軒は朝鮮通信使との筆談の際に益軒に同行し一躍名を馳せた。後年益軒は、「筑前国続風土記」三十巻の編纂の大半を恥軒に託している。
 元禄十三年(1700)、益軒は七十歳になり藩主の許可を得て役を退き、著述に専念することになる。晩年は古学派的思考へ進み「慎思録」「大疑録」を著し、博物学史上にも「菜譜」、「大和本草」の名著を著し重要な位置を占めている。また、自らの体験による紀行文の数々は芭蕉の「奥の細道」の系列とは別に近世紀行の一つの流れを作り、一方「養生訓」、「和俗童子訓」等いわゆる「益軒十訓」は極めて平易な文章で庶民道徳を説き、江戸期における庶民教育の発展に寄与した。
 その著書の多くは京都の柳枝軒(りゅうしけん) という書肆から藩費で刊行され流布している。
 正徳四年(1714)八月二十七日没。年八十五歳。        


参考文献
    井上忠 「貝原益軒」吉川弘文館 1994年
   板坂耀子 「江戸を歩く‐近世紀行文の世界」 葦書房 1993年
   西日本新聞社編 「福岡県百科事典」 1978年



 崎 普 (やまざき・ふざん)

享保十四年(1729)〜文化六年(1809)


 福岡藩医山崎杏雨(やまざき・きょうう)の二男として享保十四年(1729)名島町に生まれ、父の医業を継いで法橋、のち法眼に任ぜられた。名は初め意春(いしゅん)、また養轍(ようてつ)のち文亮(ぶんりょう)、好節(こうせつ)とも称した。
 父、杏雨は医業の傍ら、蕉門俳人として著名な野坡の九州行脚に享保年中から親しみ、筑前における野坡門の代表的な存在となって「水僊伝」享保十三年(1728)その他、多くの俳書を編み、福博俳諧の重鎮としての名をほしいままにしていたが、普山もまたその道を襲い、 杏扉(きょうひ)を俳号として父母の追善集「雪見舟」明和五年(1768)を初め、刊・未刊あわせて十八部ほどにも上る俳書を編纂している。ノ鯤坊(ちょうこんぼう)とも号したが普山(不山とも)の号も恐らく俳号の一つでもあろう。
 享保頃から地方俳人として知られた人物で、民生にも意を尽くした者が多く出ているが、普山もまさしくその一人として数えられる。これは地方俳人即知識人としての存在ゆえの当然でもあるが、ちょうど時代がそのような庶民教化という 目的意識の高揚した時代でもあり、指導者としての真摯な姿勢の現われであったといえる。
 普山のその面の著述は「教訓ゆき平なべ」(32番)、「農家訓」(2番)、「孝子正助略伝」文化三年(1806)等があるが、「ゆき平なべ」は大坂板で、一見洒落本かと見まがう様な瀟洒な仕立てで、商家の主人、妻女、男子、女子、隠居、使用人のそれぞれに対する生活態度のしかるべき姿勢を教訓するものであり、行文も滑稽本まがいのくだけたものになっていて、なかなかの文章力といえる。 その他の博多で刊行した二篇については展示資料の中で解説しておいたので参照されたい。二篇何れも薬院の推移軒という者の彫板と明記され、現在判明する博多板としては最初の物であるゆえ、この推移軒に関しては是非その経歴を明らかにしたいが、恐らく一枚摺りや看板などの彫刻を手がける職人であり、まだ本屋というには至らないものと思うが、残念ながら今の所は、他に手がかりとなるものがない。
 普山の没年は文化六年(1809)七月、八十八歳という。


参考文献
    許斐友次郎 「山崎杏雨と普山」(福岡34号)  1929年
    大内初夫 「俳人青陽堂山崎杏雨」(福岡県史・近世研究編 福岡藩三)  1987年



亀 井 南 (かめい・なんめい)

寛保三年(1743)〜文化十一年(1814)

 医者である父聴因(ちょういん)の長男として寛保三年(1743)早良郡姪浜村に生まれ、医業の傍ら唐人町で父と学塾蜚英館を経営し、儒学の教育にあたった。名は魯(ろ)、字は道載(どうさい)、号は南冥。
 南冥の門下には秋月の原古處(はら・こしょ)、後に「南冥亀井先生遺稿」(5番)を編んだ柳川の牧園茅山(まきぞの・ぼうざん)など多士済済にわたる。
 南冥は安永七年(1778)、福岡藩より儒医として登用され、天明四年(1784)、西学問所甘棠館の祭酒(館長)に就任した。甘棠館では徂徠学の流れを汲む古文辞学派の儒学を身分や出自に関係なく、広く一般民衆に説き、亀門学の基礎固めを行ったが、それは同時期、赤坂に開校した竹田定良(さだよし)を館長とする朱子学派の東学問所修猷館を凌ぐ勢いであった。しかし、その後、両派の間には 学問上の争いに加えて、感情的な食い違いも生じ、寛政二年(1790)、朱子学以外の学問を異学とする「寛政異学の禁」通達後、南冥追放の機運が高まった。
 「岡縣白島碑」(1番)を撰文し建碑した南冥は、朱子学派を刺激することとなり寛政四年 (1792)、藩より甘棠館祭酒の罷免と禁足の処分を受けた。同時に弟の崇福寺住職、曇栄(どんねい)にも隠居が命じられた。退役後の南冥は、寛政五年(1793)に 「論語語由」を完成させ、これは後に原古處の斡旋の労と秋月藩主黒田長舒(ながのぶ)の英断により江戸で開板することになる。 これが南冥生前唯一の出版物と言われている。秋月藩の後援は永く続き、亀門学は昭陽の代になり、より一層繁栄した。
 南冥の没年は文化十一年(1814)三月、七十二歳という。


参考文献
    野江鼎湖  「儒侠亀井南冥」共文社 1913年
    亀陽文庫編 「亀井南冥と一族の小伝」亀陽文庫 1974年
    朝日新聞社福岡本部編 「博多町人と学者の森」(はかた学6)葦書房 1996年
    西村天囚  「九州の儒者たち」(海鳥ブックス9)海鳥社 1991年





原 古 處(はら・こしょ)

 明和四年(1767)〜文政十年(1827)

 明和四年(1767)手塚甚兵衛辰詮の次男として筑前秋月に生まれ、秋月藩儒官の原坦斎(はら・たんさい)の養子となる。
秋月の文化の中心人物として、藩学振興のために尽くした儒学者であり詩人である。名は叔暉(よしあき)、字は士萠(しほう)、通称震平(しんぺい)、秋月城背後の古處山より号をとる。
十八歳で藩命をもって福岡へ赴き、亀井南冥を祭酒とする甘棠館に入学、詩作に優れ、亀井門下の四天王の一人といわれる。しかし、養父の坦斎が病に倒れたため、 僅か三年足らずで秋月に戻り、父の跡を継ぎ藩校稽古館の訓導となった。
 化政文化の最盛期に際し、藩主八代目黒田長舒(ながのぶ)、九代目黒田長韶(ながつぐ)の二代に歴任した古處は破格の恩寵を受けている。三十四歳にして稽古館の祭酒となり、三十九歳の時、私塾「古處山堂」を与えられ、四十二歳で十四石の無足組の一介の平士から百石の御馬廻組の役人格となった。さらに、御納戸頭に昇進し、藩公の江戸参勤にも従った。
 文化八年(1811)辛未の変いわゆる「織部崩れ」により古處は退隠を願い出て、文化十年(1813) 公職から離れ、その後は、甘木に私塾「天城詩社」を創設し詩人の生活に入った。 自由と余暇を得た古處は恩師亀井南冥が愛用した「東西南北人」の印を携え、妻雪、娘采蘋(さいひん)と伴に諸国を遊歴し、各地の文人と会し多くの詩作をし、その詩名は海西随一とうたわれた。
著作には「古處山堂詩稿」「古處山樵詩集」「臥雪余稿」などがある。「逍遥餘適」(51番)は中国地方の旅の詩作を抜粋して漫遊の記念としたもので、卷中諸詩は、短編、長編を交え、太字、小文字、上段詰め、中詰めなど巧妙な散らし書きが観られる。岩国の錦帯橋や宮島の厳島神社など八景の挿画は斎藤秋圃(さいとう・しゅうほ)によるものといわれている。
 文政十年(1827)六十一歳で没す。秋月西念寺に葬られ、墓石の文字は詩友頼山陽の筆と伝えられる。


参考文献
    西日本新聞社編 「福岡県百科事典」1982年
    山田新一郎編 「原古處、白圭、采蘋詳小伝及詩鈔」秋月公民館 1951年
    宮崎修多 「祭酒期の原古処とその周囲」(福岡県史近世研究編 福岡藩四) 1989年





亀 井 昭 陽(かめい・しょうよう)

安永二年(1773)〜天保七年(1836)

南冥三十一歳の時の長男として唐人町に生まれる。名はc(いく)、字は元鳳(げんぽう)、号は昭陽と称した。父、南冥の薫陶を受け、寛政四年(1792)、南冥の甘棠館罷免の後を継ぎ、弱冠二十歳にして西学訓導に任ぜられ亀門学を西海では右に出るものなしと云われる程に発展させた。
 昭陽の学風や詩文に傾倒した人物には、門下で後に日田で私塾咸宜園を開いた広瀬淡窓、筑前四大画家のひとりで「つはものつくし」(37番)を画いた斎藤秋圃(さいとう・しゅうほ) など幅広い。
 甘棠館廃校後は、城代組平士の勤めをこなしつつ、江戸で南冥著の「論語語由」の開板に従事し、また自身も経学研究に没頭し「周易僣考」「毛詩考」等、多数の著述を残した。しかし、著述の多くが未刊のままであり、筑前の一儒者として知られるにとどまっていた。当時、福博における出版が定着していたならば、その著述は必ず刊行流布されて名声も大きく広まっていたに違いない。
 亀門学は昭陽が大成させたと言われており、著作の「家學小言」(8番)や「読辨道」からは古文辞学を超越し、経学を重視した独自の学問を構築する姿勢が伺える。
 亀井家は南冥とその弟曇栄(どんねい)、長子昭陽、次男大壮、三男大年(たいねん)の五人を総称して五亀(ごき) と呼ばれ親しまれている。
 文政十二年(1829)五十七歳で隠居するが、亀門学は長女小栞(しょうきん)、次男暘洲(ようしゅう)へと引き継がれた。 天保七年(1836)六十四歳で没す。


参考文献
    野江鼎湖 「儒侠亀井南冥」共文社 1913年
    荒木見悟他編 「亀井南冥・昭陽全集」全九巻 葦書房 1978−1980年
    荒木見悟 「亀井南冥・亀井昭陽」(叢書「日本の思想家 27」)明徳出版社 1998年
    早船正夫執筆 「亀井家学を支えた女たち」1-4(能古博物館だより第36-39号)
    亀陽文庫・能古博物館 2000-2001年




 藤 秋 (さいとう・しゅうほ)

                      明和五年(1768)〜安政六年(1859)

 文化二年(1805)、秋月藩主黒田長舒(くろだ・ながのぶ)に召集されて御抱え絵師となり、その後天保九年(1838)に藩籍を離れて太宰府住の町絵師となるが、猶、安政六年(1859)九十二歳で没する迄、筑前町絵師の中心的な存在であった。特に秋月時代は狩野派風御用絵の他に、写生的な鹿の絵の名手としてその画績は今に多く残る。
 但し、その前半生は、これ迄の言い伝えに拠れば、明和五年(1768)、京都の由緒ある家系に生まれ、若年時、円山応挙 の門に学び、師の没後は葵衛(あおいまもり)と名のって画事修業に出、宮島・博多・有田・長崎と西国路を辿って唐絵を勉強し、享和三年(1803)、長崎滞留中に長舒公の目にとまったといわれてきたが、これは多分に御抱え絵師としての体面を保つ上での操作であった部分も多いようで、近年の調べでは、御抱え絵師となる以前は、大坂の新町遊廓で、亦助と称した絵の上手な幇間をして、馬琴などにも激賞されたほどの者であることが明らかにされ、特にその「葵氏艶譜」(享和三年(1803)、大坂刊)と題する廓内風俗を活写した四条派風俗絵本の刊行は、絵と彫りと摺りの、三拍子揃った彩色絵本の傑作として、現在では海外の鑑賞家の間でも、特に珍重されてもいる。その他「つはものつくし」(37番)や「わすれ草」等の彩色絵本に見せる画技は、独特の構図と色づかいによって、見事な出来栄えを示す。
 当時の号は足斎・双鳩などと名乗るが、御抱え絵師となってからの号を秋圃という。
 秋月時代から太宰府住の晩年迄は、その表芸ともいうべき狩野派風のきまりきった絵は、現存するものも極めて多いが、 それ以外に藩内諸社寺への奉納を依頼されて画いた絵馬や天井絵の類の画風には、前半の四条派風風俗画の筆致も十分に生かされて、極めて面白く趣深いものが多数報告されている。
 その他郷土俳人の俳書や摺り物に筆をとったものも、その系統の画風で生彩を放つものが多いようだが、この面の画績 は恐らく今後の発見に待つ所が大きいように思われる。


参考文献
    許斐友次郎「筑前の斎藤秋圃画伯を憶ふ」(九州日報 昭和8年5月20〜6月3日)
    小林法子 「筑前関係絵師資料‐斎藤秋圃略年譜」(福岡大学人文論叢25巻1号)1993年
    中野三敏「あるお抱え絵師の生涯」岩波書店 (ものがたり日本列島に生きた人たち 第七巻)2001年