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筑豊炭田

    明治以降、福岡県の筑豊炭田は大牟田の三井三池炭鉱とともに日本の工業化にエネルギーを供給し、日本近代化の基礎を支えてきました。
    第二次世界大戦後も、国の傾斜生産政策と朝鮮戦争による特需景気などによりいち早く荒廃から立ち直り、北部九州の復興と発展に寄与してきました。最盛期には筑豊地域に約150の炭鉱が存在しましたが、昭和30年以降進行したエネルギ一転換は石炭産業を崩壊させ、特に筑豊地域は深刻な打撃を受けました。
    昭和48年(1973)に筑豊炭田から坑内採掘は姿を消し、昭和51年には最後に残った貝島炭鉱(宮若市)の露天掘りも終了して筑豊からは完全に炭鉱がなくなりました。
    石炭産業の消滅は、筑豊地域を衰退させ、鉱害や失業問題など多くの課題を残しました。炭鉱札に描かれた当時の炭坑風景(筑前御徳炭坑 炭鉱札より)しかし、100年以上の歴史をもつ筑豊の石炭産業は、単に産業経済面だけではなく、筑豊地域の生活や文化を形成し支えてきました。
    閉山からすでに約30年が経過し、筑豊地域にかつての石炭産業の面影を見つけることは困難になってきましたが、これらの「炭鉱札」は炭鉱労働者の生活の一端を示しており、貴重な資料ということができます。