斎藤秋圃【さいとう・しゅうほ】
(初名は葵衛【あおいもり】、足斎【そくさい】、雙鳩子【そうきゅうし】など)

明和五年(1768)~ 安政六年(1859)
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『うめわさむ』の絵  文化二年(1805)、秋月藩主黒田長舒【ながのぶ】に召出されてお抱え絵師となり、その後天保九年(1838)に藩籍を 離れて太宰府住の町絵師となるが、安政六年(1859)九十二歳で没するまで、筑前町絵師の中心的な存在であった。
 明和五年(1768)、京都の由緒ある家系に生まれ、当時一世を風靡していた円山応挙の門に学んだ。応挙の死後、同門の 森狙仙に師事し、その後新しい画法の研究のため、西国路をたどって長崎へ下り、享和三年(1803)、長崎で修行中のおり、 長舒の目にとまり、お抱え絵師として召抱えられることとなったといわれていたが、近年の研究によると、この経歴はお抱 え絵師としての体面を保つ操作であった部分も多いようで、それ以前は亦介【またすけ】と称した絵の上手な幇間【たいこ もち】として大坂新町で活躍していたことが明らかになった。その画技は馬琴が激賞するほどであった。当時の号は足斎、 雙鳩子と名乗り、『葵氏艶譜【きしえんぷ】』(1(A).享和三年(1803)初刷 2(B).文化十二年(1815)後刷 いずれも 大坂刊)という新町遊郭の様々な日常生活を巧妙に、和やかな画風で描きあげている。この本は絵と彫りと摺りの三拍子揃っ た彩色絵本の傑作として、現在では海外の鑑賞家の間でも特に珍重されている。その他に、『つはものつくし』(3. 文化二年 (1805)序 板元未詳)は当時江戸で人気を誇った鍬形恵斎【くわがたけいさい】の筆致 をとり入れながらもそれを超える秀作 となっている。ここでいう恵斎の筆致とは、簡単なスケッチ風の表現即ち「略画式」のことで、秋圃はその簡略化された線の 軽妙なタッチだけでなく、彩色の調子や構図も自分流に工夫して会得していた。例えば絵俳書 『わすれくさ』(4. 奇渕撰 [文化二年(1805)頃力]大坂、京都刊)の秋圃筆「ぱいろむ」の絵は、恵斎の絵手本『人物略画式』(26(A) (B). 寛政十一年(1799)江戸刊〉の群集処理の方法をうまく咀嚼して躍動感あふれるものになっている。
 秋月藩のお抱え絵師、秋圃として活躍した時代は、これまでの風俗絵師時代の画風とはうってかわって、狩野派の筆法を用 いた堂々たるものが多い。特に写生的な鹿の絵の名手として知られ、作品は多数残っている。それ以外に藩内諸社寺への奉 納を依頼されて画いた絵馬には、以前の絵本にあらわれた伸びやかな画風が生かされており、また郷土俳人の俳書や摺り物 に筆を執ったものも、生彩を放つものが多い。