No.7.1972.4.



聴き上手になること
−新入生諸君のために−

図書館長  渡  辺  幸  生



 大学に入学すると一般教育の課目を、どんな学部の諸君でも履修しなければならない。本学では9学部の学生が、いくらか選択できてもかなり多数の学生が一時に同じ課目を聴講することになる。それは国立の小人数制のところでもさしてかわらない。いわば大教室制がとられる。おそらく高校教育と形の上での大きいちがいの一つであろう。まじめに高校で勉強して来た学生は先生のまなざしとその思いやりのある心が遠くに去ってしまったようで、講義内容まで冷たくなってしまったように感じるにちがいない。なじめない先生とその講義とは心にしみることがなく、心の成長に役立たないように感じる。
 もし上に述べたように思っている諸君がいたら、それは講義をきく聴き方がまずいのではないかと反省してみる必要がある。私のみるところでは大抵の諸君が講義のききっぱなしで、あと復習する努力をしていないように思う。大学の講義をきくときはその内容をうけとる用意が必要だ、そして講義の要点をききながら取捨選択してメモをとり、あとで要約した文にする努力をしなくてはならない。このレジュメ(要約文)をかくことは講義を耳と頭と手で留める努力をその時にしておいて、あとで再現することである。その時なるべく講義内容を忠実に再現する、要領よく簡潔な文章にするのである。そして次に自分の疑問と感想を付け加える。できれば、参考書をみて関連の事項についての他の学者の説明を併記しておく。これはもう研究の段階に入る仕事の始まりである。
 日本の戦後教育の方法で問題に思うのは○×式答案作成法である。そういう方法に慣らされて、17、8才にもなった頭脳は心と身体と一体である人間の中で、関連的構造について眼を開かないで、バラバラの知識だけが点数をかせぐことに慣らされる。そのうえ投機的判断を求めて偶然の幸福を期待する、そういう人間を作りはせぬかと恐れるのである。
 表現すること、文をまとめてかくこと、人に話をして判って貰うこと、ことに反対の立場の人に判って貰うように話しすること、それはむずかしいことであるが大学で学ばなかったら、もうどこで学ぶところがあろうか、大学では表現力を会得すること知識と論理と構想力が含まれているところの表現する力をうることが最大の自己開発教育の目的である。それは自ら努めなくては得られない。本学の工学部のある学科に今はないようだが表現法という科目があったと記憶する。内容は私の言うことと同じかどうか知らぬが、求められるところは近いのではないかと思う。
 自己開発の場としてこの4年間この学習の方法を徹底的にやって御覧なさい。そうすれば満足する4年間が送れると思う。それは学ぶのでなくして、自らを開くことである。その一つの方法として聴き上手になることである。身を入れて聞いてやる余裕をもち、受け入れて、濾過して自分のものとして、それを表現する力を身につける。そう言うことを努めるのが大学生のつとめであると思えばいい。
 読書はこの聴き上手にならなければできない一つの作業である。図書館を利用して、著者と対座してその話に耳を傾ける気持で、その内容と人柄とをとり入れることは講義をきくと同じ値打がある。
                                                   (法学部教授)



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