貝 原 益 軒 の 「大 疑 録」

                                             井  上     忠

 元禄前後の郷土が生んだ碩学貝原益軒(1630〜1714)は歴史・地理・博物・医学・教育論等々の多くの部門にわたりすぐれた業蹟を遺した人である。そしてこれらの著者を介して窺いうるその学問の方法、すなわちたくましい実証的態度・合理的精神には300年後の今日に生きるわたしたちの胸をうつものがある。ところで彼みずからは儒者と自覚していたのであるから、その方面の総決算ともいうべき「大疑録」をここでとりあげてみよう。
  彼が朱子・陽明兼学の態度を廃し、朱子学一途に進む決心をしたのは36才の頃からというから甚だ晩成型といわねばならない。朱子学を選んだ理由は「義理純正にして雑ならず、論説広博にして明らかに備わる」ところにあるとした。その後も研鑚を続けた彼が朱子学のもつ観念的な面への疑問を抑ええず学友に打明けたのは元禄5年(63才)の頃であるが、一学友からうけた批評は「それではお前の説は、京都の商家出身の妄生伊藤仁斎と同じではないか」という酷いものであった(皮肉なことにこの年に益軒は仁斎学説を批判する「童子問批語」初稿を書き、再稿を経て元禄15年に成稿している。仁斎が朱子学を否定して新しく古学派を創唱したのに対し、益軒は朱子学の体系を支持しながら難点を指摘しようとするのである。ひとは往々にして自己に近い思想的立場にある者に対して最もはげしい対抗意識をもつ場合がある。益軒の態度にもそうしたものが多分に感じられる)。こうした批判に対する益軒の応答は朱子の言葉を引用してなされた。即ち「疑なき者は疑あるを要す」また「大いに疑へば大いに進むべし。少しく疑へば則ち少しく進むべし、疑なければ則ち進まず」と。
 朱子学を体系的に批判した点において本邦最初の書とされる「大疑録」は、彼の歿年85才の折に完成した。それに先だち、その草稿本と思われるものが二種類現存する。まず元禄末年になった58条からなる。「慎思外録」があり、ついでこれを改題した「大疑録」初稿本があり現行の活字版と比較すると2倍余りの194条か
  らなる。初稿本の分量が多いのはその折々に思いつく儘に記入したためか繰返しが多く、また些末なことにまで及んでいる。これが圧縮され簡潔化されていったわけである。朱子学のもつ観念性への疑問は彼の半世紀を通じての人文ならびに自然科学への探究を介して抑ええぬまでに昂まってきていたのであり、また明の朱子・陽明兼学の学者呉蘇原の「吉斎漫録」その他の漢籍からうけた影響もすくなくなかったようである。
 既述の伊藤仁斎、また「大疑録」完成より10余年後に江戸で古学派をとなえた荻生徂徠はともに民間にある自由な身であった。それに対し筑前藩における文化的諸事業の中心人物であった益軒には、思想の表明にも慎重な態度が必要であった。彼は朱子学の長所、宇宙から人倫に及ぶ広範囲を学問の対象とし論理的思索を進めようとする点は充分に認めながら、なおかつ思考の基底にある実在と現象とをことさらにきびしく区別する二元論的な見方、すなわち理気二元論あるいは理先気後説に納得できなかった。これを排し理気合一論、本質的には気一元論をとなえたのである。
 本書が後に徂徠派の人々の序文をつけ、朱子学派を撃つために出版されたのは歴史の皮肉であるが、また当然のなりゆきであったともいえよう。なお本書を正面から反批判した著述はないかと探していたら、先年武谷文庫の中から見つかった。白霊泉なる人の「決疑録」と題する20枚余りの稿本で、著者は一郷土史家三宅酒壺洞氏の御教示によれば―、嘗て甘木の寺にいた僧侶で聖福寺の幻住庵にすんでいたこともあるという。前書きによると、益軒の「疑て終に決せず」という優柔不断の態度を非難し、そのまどいを解決させてやると語気ははげしいが、その論旨は徂徠派的であったり朱子学派的であったり首尾一貫しないものであった。(なお「大疑録」の邦文書き下しは岩波「日本思想大系」本中に、また現代語訳は中央公論社「日本の名著」本中にあることを附記する)。
              (人文学部教授)


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