近世の長崎は、わが国の外来文化導入の唯一の窓口であった。たしかに、16世紀の中葉、ポルトガル船がこの地に来航し、いわゆる「キリシタンの町」として発足した長崎のその後の三百余年の歴史は、ヨーロッパ文化移植の歴史でもあった。ところで、鎖国時代の長崎の外来文化受容の窓口は、出島のオランダ商館であったといえよう。洋学という名前のヨーロッパ文化は、出島を関門として受容され、しかも出島を舞台として、日本の当時の知識層にとけ込んでいったのであった。   鎖国時代のそれが消極的であったのに対し、積極性を持つようになった点であろう、卓抜な外交手腕と高邁な識見をかわれた東印度法院参事官ドンケル・クルチウスは、出島オランダ商館長として着任後まもなく、幕府より海軍創設の相談を受けた。長崎伝習は、彼が幕府への回答として、海軍に関する基礎知識の習得の必要性を説いたことがきっかけとなって、実現したのであった。
 長崎伝習の具体的な内容については、第二次派遺隊教育班長のカッテンディーケ、長崎医学校の
 ドイツ医学界の名門の出であるシーボルトが、父の門人のあっせんで、あこがれの日本にやってきたのは、文政六年で、彼が27才の時である。出島のオランダ商館長ストルレルが長崎奉行高橋越前守に宛てたシーボルトの推薦状には、彼が医学・植物学・物理学・地理学に精通した著名な学者であることを挙げているが、当時のオランダの国策に沿って、彼の滞日中の研究は専門の自然科学に宗教・法律・経済・芸術・風俗・言語等をも含む万有学的性格のものであったといわれる。しかし、滞日中の彼の資格は、「出島蘭館附の医師」であり、彼がその研究のために最大限に利用したといわれる江戸参 基をきづいたボンペ、勝海舟の著書等にくわしいが、ここではカッテンディーケが当時の長崎をどのように観察し、評価したかを、その著『長崎海軍伝習所の日々』に沿ってうかがうことにしよう、まず、彼は長崎の人々にふれ、約6万人を越えるぐらいであるとしている。長崎の町は、多少の例外はあるが、寺と倉庫と店から成り、店は大名屋敷に属して、手代がおかれ、大名がそこに寄宿する場合もあるとみている。倉庫と店は、諸藩の蔵屋敷をいったものであろうか。もともと諸藩の長崎屋敷は、諸藩が幕府より軍役として課された長崎警備を目的として設けられたもので、責任者とし聞役が常駐
府も、出島商館長の随員として参加したのであった。シーボルトの医学・万有学の研究や講義は、はじめは出島のオランダ屋敷内で行なわれたが、長崎奉行高橋越前守の幕府への働きかけが効を奏して、やがて鳴滝の塾会の開設が許可され、陸奥の高野長英・肥前の伊東玄朴・筑前の武谷元立ら多数の俊秀を集めて、臨床講義をもってする西洋医学を中心とした自然科学万般の教授が行なわれたのである。シーボルトはことのほか鳴滝が気に入り、「鳴海の渓間なる絶勝の地に置かれたる余の別荘」といっているが、長崎港についても、「海の動物を採集するにはこれよりも多く望み得ざる程の機会を与えた」とし、長崎が研究の絶好の場所であった事を認めている。長崎の自然と人情が、シーボルトの研究を支え、ひいてはわが国のヨーロッパ文化の摂取を順調に導いたと考えてよいようである。
 開国後のわが国の外来文化摂取の特徴は、
  した。しかし、江戸時代の後期に至ると、聞役は自藩物産の販売担当官としての性格を強めていった。薩摩藩の琉球貿易や佐賀藩の英商グラバーとの合弁契約は長崎屋敷の聞役所管の事業として推進されたのであった。カッテンディーケは、長崎が上海市より120浬をへだてた所に位置し、中国大陸との貿易に有利であり、将来商船や軍艦来航のあかつきには、必ずそれらの修繕設備すなわちドックの必要を感じるはずだとも述べている。また彼は長崎のごく近所で頗る良質の石炭(=高島と伊王島)を産する事実にも注目している。鎖国時代にシーボルトにその自然と人情を愛された長崎は、開国後カッテンディーケによって、蒸気船時代にふさわしい港湾都市としての性格を見出されたのである。われわれは日本の近代を背負って立った福沢諭吉や五代友厚あるいは伊藤野枝らが、青春の一時期を長崎で過し、近代化の息吹にふれた点をみのがしてはならないであろう。
              (商学部教授)



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