ウップサラ大学図書館秘蔵の銀泥聖書
山本 治夫

 半ば漂泊の思いで東西各国の図書館を遍歴したが、それらの中で、自分にとって貴重なストックとなり余韻が今でも続いている例が少なくない。それら図書館のキャラクターは次のような要素から生れると思う。(1)得難いドキュメント・資料が多い。(2)研究と知見を飛躍的に増強進展させる快い刺激がある。(3)館員が優秀である。(4)人間的にほのぼのさせるものをもっている。(5)佳き建築(内構外構)と立地条件。(6)図書館の魅力的な自己表示。ル・コルビジェ流の合理性と効率主義で固め切ったような機構や建築もいいが、重厚な中世建築や幻想性の漂ようのもいい。中近東や東南アジアには心ゆくばかりの余情豊かで‘もののあはれ’の濃い図書館が多い。図書館をみれば、その大学はどんな大学であるか、その都市、その国家はどんなものかが暗示されているのではあるまいか。図書館は単に読書したり知識を調べるだけの場ではなく、人間的・文化文明的なものの集約された所でもある。こんな風に考えてくると、私はスヴェーリエ(スエーデン)のウップサラ(Uppsala)大学の図書館の正面に『銀泥聖書』が保管され、他の重要文化財クラスのドキュメントの中にあって、一際燦として輝ける存在になっていることを挙げざるを得ないのである。この由緒深き有名な銀泥聖書が、この図書館の一番晴れがましい特別室に在るということ自体、極めてスヴェーリエの人間的、歴史的、文化文明的な顕現だというべきであろう。M. ルーテルの新旧聖書独訳はその後聖書が遍く西洋諸近代諸語に訳される端緒となったが、ルーテル訳に先立つこと一千年以上もの4世紀に、ゴート族の代表的知性たりしWulfila僧正(311?-385)が初めて俗語(民族語)たるゴート語に訳したのである。TacitusのGermaniaを引き合いに出すまでもなくゴート族はフリーズやカウキーなどと共にゲルマニアで一等知能指数高き存在だ。Wulfila 訳は単なる翻訳ではなく、それによってゲルマニア精神の原像を省察し涵養せんとしたものである。聖徳太子の法華義疏に比することもできなくはない。テオドリック大王の強大な東ゴート帝国はキリスト教国で、Wulfila訳聖書が広く用いられた。帝都RavennaやVeronaには多数の写本が作られた。人はこれをCODEX ARGENTEUS(銀泥写本)と呼んだ。 その壮重なゴシック文字は銀にして高貴なる紫に馨っている。CODEX ARGENTEUSは不可思議な摂理の中に現代に伝わった。聖Liuderはシャルルマーニュ大帝の偉大なる師Alcuinの弟子で、ゴート語に通じていた。彼はEssen近傍のWerdenの僧院に銀泥聖書をもたらした。世は移りゴートの影は薄れ、ラテン語聖書万能の下に、銀泥聖書はWerden僧院裡に幾世紀もの間、Belle au Bois Dormant(眠れる森の美女)のごとく埋没し続ける。カトリック世界が緩みラテン語至上主義が去って、各ethnosがローマン的風潮の中に脚光を浴びはじめた頃に、美女は蘇ったのである。ベルギーの学匠G. Cassander, C. Woutersがこれに着目しオランダのBonaventuraも珍重した。皇帝ルドルフ二世はこれをボヘミアへ移し、プラハの王宮に珍蔵したのだが、美女はそこに長くは留まらなかった。三十年戦争最後の年の1648年6月にスヴェーリエ(スエーデン)軍勢がプラハを襲撃し、王宮僧院から夥しい芸術のコレクションを戦利品としてストックホルムへ持ち去った。その中にこの美女がまじっていたのである。こうして銀泥聖書はかの有名なクリスチーナ女王の書庫に収められた。女王は博識でポリグロットだったが、Wulfilaやゴート語にまでは及んでいなかったので、1654年王冠を捨て最も高価な宝物や写本類を携えてイタリアへ移住する折に銀泥聖書を除外した。これはスヴェーリエにとって勿怪の幸だった。ところが、女王の書庫の債権者の一人で学者のI. Vossiursはこれを祖国オランダへ持ち去り、後年オランダ駐在のスヴェーリエ外交官がこれを買い戻す一幕もあった。人々が古代スヴェーリエの歴史や言語に情熱を傾けはじめた頃、銀泥聖書を比類なき宝とする国民感情が燃え上った。それを好機に、ウップサラ大学当局は1669年6月14日、いとも厳かに銀泥聖書を図書館に受容したのである。現地の古地図には南部スヴェーリエが全部ゴート(GOTHIA)となっている(ゴート島を含めて)。自国がゴート族の第二のハイマートだとしている。その外史に限っても、一冊の本の中にかくも深徹に西洋史的比重をもつ事柄や人物群の足跡が籠っている例は珍らしい。ここにその概略を述べ皆様のご参考に供したく思います。
(人文学部 教授)


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