読書のすすめ
犬塚 貞光


 私共の学生時代、殊に旧制高等学校では本を読めということをよくいわれた。こんな本を読んだらよかろうといって「学生必読の書」というような一冊の本に纏めたものさえあった位である。尤もその頃は他に楽しみもないし、文化的なことといえば、読書か映画位しかなかった頃であるから、それから4、50年経った今日と同一視することはできないだろう。今日でも本屋の店頭には文学書も沢山並んでいるから読む人は読んでいるのであろうが、そしてその読む本が4、50年前とは違うだけなのかも知れないが、私の見る限りでは漫画本を愛読する大学生が、そして漫画本しか読まない大学生が多いのではないかという気がする。
 いつかテレビで大人と子供に同じ漫画をみせてその読むスピードを比べたのをみたことがあるが、子供の方が遙かに速かった。とすれば、今後は教科書なども皆漫画にしてしまう方が理解が早いのではあるまいか。
 確かに私の専攻する外科学、殊に手術などは図解する必要がある。口で言うよりもビデオで見せたり実地で手術の助手の真似事をさせる方が分りやすいのは事実であり、実際今日でもその様な教育方法を取っているのである。
 しかしそれならば、法律でも文学でも皆図解や劇画式のものばかりにしたらどうなるのであろうか。
 私はある三文小説で、劇画というか漫画というか、とにかくそのシナリオライターが新人の画家の腕前を試すために「腹が減ったな」という台詞をかいたところ、画家の方では主人公が食堂がずらりと並んでいる所をチラリと横目でみながら通りすぎる絵を描いたので、その画家を信用する様になったというのを読んで考えさせられたことがある。
 なるほどこの画家の才能はたいしたものであろう。しかしこの様な絵をみて「腹が減ったな」と

読みとる人もいるだろうが、「この人は急いで何処へ行くのだろう」「これは何処の食堂街だろうか」「あそこにはフランス料理屋があるかしら」「何だか不潔そうだな」などと色んな解釈ができそうである。
 それにシナリオなり、頭に浮んだ考えをこの様な絵にして表現することは、誰にでも出来るということではない。これに反して、「腹が減ったな」という字は誰にでも書ける筈であるし、また誰にでも読める筈である。絵は上手に描かなければ理解出来ないことが多く、我々は犬と猫とを描き分けることさえ難しいが、字ならば少々下手でもまず読み書きが出来る。
 そう考えて来ると漫画ばかり読んでいてはいけないことが納得がいって一安心したが、しかし安心はしたものの世は澎湃として漫画ブームである。否その他にすることが、遊ぶことが多過ぎるのかも知れない。
 いずれにしても字を知らないし、文章の読解力が弱いし、ボキャブラリーに乏しい若者が多い様な気がしてならない。本来何か考えることがあって言葉があるのであり、何か複雑なことを考えると言葉も自然に複雑になる筈である。だとすれば複雑な、あるいは微妙な単語や文章が分らないでは、頭の中も単純なのではないかと、つい憎まれ口をききたくなる。
 これを学校教育の欠陥に帰することは容易であろうが、それでは無責任な議論と言われるだろう。私としてもこの件に関しては色々考えることもあるが今の学生に直ちに役に立つことではない。
 そこで考えたのが読書である。読書といっても週刊誌などではなく、古今東西の名著といわれるものをじっくりと味わってみたらどうであろうか。
 どうやら今少し書を繙き、思いを天地の間に潜める必要がありそうである。美しいわが日本語が最近幼児化して来たような気がしてならないこの頃である。                  (医学部 教授)


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