図書館報
No.56. 1990. 4


最近の本から
冨永 佳也

 若い頃から、仕事(生物学)に必要なものを除くと、哲学や社会科学の多くは敬遠して軟らかいものばかり読んできた。そして今は、雑誌の書評欄を頼りに好みに合った明快な文章のものしか読む余裕がない。付き合う著者がかなり偏って狭くなったが、止むを得ない。
 ペンネーム“風”の激辛書評で評判をとった百目鬼(どうめき)恭三郎が、自著の『乱読すれば良書に当たる』(新潮社、1985)で紀行文学の白眉は斎藤茂吉の『ドナウ源流行』だと推賞していたので、ときには美しい日本語も懐かしかろうと西独のエッセンに出張していた本好きな男にコピーを送ったことがある。返事には、なにが名文だと書いてあった。専門外の本を薦めるのはやはり難しい。とはいえ折角の機会だから、生物系の科学者が昨年出した本のうちで、文系・理系を問わず全学部の諸君に面白そうな3冊を紹介しよう。専門書については、授業の折にでも尋ねていただきたい。
 まず心身二元論などの哲学に関心のある諸君には、養老孟司の『唯脳論』(青土社、1989)が新しい視点を与えてくれる筈だ。著者は東大医学部の解剖学教授だが、平明で立脚点の確かな哲学的論考である。言論界に新たな才智の顕現をみて、今後も愉しみだ。文学の好きな諸君には、F・ジャコブの『内なる肖像』(みすず書房、1989)が並みの小説よりはるかに面白いだろう。

著者は、高校の教科書にも出てくる遺伝子発現機構のオペロン説で1965年にノーベル賞を受賞したパスツール研究所の理事長。自由フランス軍に志願、ノルマンディ上陸作戦で重傷を負い、30才で研究生活に入った時はプロファージという語すら知らなかった話が3分の2を占め、後段で新発見を目指す10年間の熱気に満ちたドラマが語られている。同僚で同時に受賞したJ・モノ(『偶然と必然』、みすず書房、1972の著者)の高い知性に感嘆しているが、どうしてジャコブも優れて文学的だ。
 そして生き物の好きな諸君には、桑原万寿太郎の『動物の本能』(岩波新書、1989)を薦める。九大名誉教授で岡崎の国立基礎生物学研究所長を勤めた著者は、実は小生の恩師である。昨年末、漫画家の杉浦日向子が週刊朝日で「端正で、気品のある文章。ホレてます」と激賞していたので、遠慮なく紹介することにした。桑マン(弟子達は皆そう呼ぶ)にとっては3冊目の岩波新書だが、80才を越えてなお冴えを見せる筆力には感服する。ちなみに杉浦日向子は江戸の時代考証に滅法つよく、文章も達者だ。漫画でないと満足しない諸君には、彼女の洒脱な文章が同時に鑑賞できる『江戸アルキ帖』(新潮文庫、1989)を薦めておこう。
 ささやかな読書ですら、思い通りに楽しめる時日は意外に限られているものである。
(理学部 教授)


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