ミスプリントの効用

藤村 敏郎

 私が教職についたのは十三年前の事である。三十年近く勤務した公社を退職した後で、年だけは一人前に取っていたが教育は殆ど初体験だけに戸惑うことも多かった。私の学生時代(教科書はなく殆どノート)と違い教科書を使用するのが普通でその点は楽であったが、やはり教わる側と教える側の大きな違いをしみじみと味わされた。一を聞いて十を知るという言葉があるが、一を教えるには十を知らなければと実感した次第である。それまでの私の職業柄、理論またはそれによる計算結果だけでなく、実験、場合により大々的な現地試験による裏付けがなされない限り、周囲から容易に受け入れられないという環境で長年過ごしてきたことも一因だったかも知れない。
 さてその教科書であるが、当初使用していたものが改版で章の入れ替わりがあり、継続使用に無理な点があったので、新しく出版された別人の著書に変更した。ところが新版のためかミスプリントが幾つかあり、学生諸君への徹底に苦労させられた。学生諸君はこちらが講義中にくどい程訂正するよう話をしても、なかなか訂正しないのである。欠席者は当然ミスプリントのままの者が多い。人間、活字になると「正しい」とつい思い勝ちである。定期試験の解答にもミスプリントの公式をそのまま使った者がいたのには閉口したが、あまり人のことは言っておれない。小生も多分ミスプリントと思われる演習問題と例題に悩まされることになったのである。一例を挙げると、
 「ある電線路(ここでは平行した2本の電線とする)に商用周波の交流電圧(我々が日常使っているものと同じ)を加えたときの位相伝搬速度(簡単に言えば電気の伝わる速さ)を求めよ」
 と言うものであるが、問題はその線路の定数である。電線路には固有のインダクタンスと静電容量(2本の電線間)があるが、与えられた値で計算するとその速度が光速(電気も同じ、毎秒約3億メートル)の2倍近い値になってしまうのである。一応「これは飽くまでも波動の見かけの速度であり、エネルギーはこの速度で伝搬する訳ではない」

と説明されているが、正直のところなかなか納得できなかった。そこで定数をチェックしてみたところ、通常の電線路には有り得ない数値なのである。先述の線路のインダクタンスLと静電容量Cは、電線の太さ、2本の電線の間隔と周囲の物質(普通は空気)で決まり、L、C相互には一定の関係が成立するのであるが、どうも静電容量Cが常識的な値よりも一桁小さいのである。それが成立するためには直径数ミリの電線を数万メートルの間隔に配置しなければならず、現実離れしている。そこでCを一桁大きくしてみると伝搬速度も光速をやや下回り、大変常識的な値となったのである。
 以上の点から小数点の桁のミスプリントの可能性が極めて大きいのであるが、わざわざ例題として取り上げている以上、それなりの根拠もあろうかと思われ、他の教科書、参考書類の問題を調査したところ果して同じ問題があったのである。しかも大変権威ある数十年前に初版が出た教科書にである。そして他の本にもしばしば引用されているのである。もっとも例題としてではなく、また上記例のように伝搬速度までを求めるものではなかった。従って速度の計算までして定数の矛盾に気付いた人がいなかったのか、あるいは当初計算法に習熟させるためだけの目的で線路定数は架空の現実性のない値をあえて与えたものか即断できない。しかし具体的な数値を与える以上、混乱や誤解を避けるためにも合理的な値を与えるべきであろう。
 そこで新入生諸君に申し上げたいのは、本を読む場合、よく自分で納得しながら読む態度が大切な点である。疑問が生じた時、その疑問の解消のための努力の過程で多くの本に接することが出来、現象を一面からだけでなく多くの面から客観的に眺める習慣が身につくものである。ミスプリントに接してもそれを鵜呑みにする事なく自分の血や肉とすることが出来よう。要は読書に限らず何事にも先入観を持たず白紙の状態で接し、是々非々の態度で対処することが大切であろう。
(工学部 教授)


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