読み・書き雑感 花野豊子
 今、西日本新聞で「惣一っあんのトッポ話」の続編が掲載されている。前編も大変面白かったが、この1月27日付けの「農協の新採女子職員が、外線電話を受けて“農産深耕課”と書いたところ、そばの同僚が“あんた、それは字が違うよ”と“農産進行課”と訂正した。私などは“振興”しか思い浮かばないから、若い人たちの発想の多彩さにすっかり感心してしまった。」を読んで久しぶりに、傑作!と考えてしまった。しかし同様の事例は身辺にも時々ある。
 私も体育を體育と学び書いた時代の育ちなので、講義で板書の字が間違いと指摘を受けることがある。つい先日も評価を評價と書いて、この字は何かと言われたばかりだったので、余計なことを感じたのかもしれない。しかしこの類で時折、なるほどと感心させられる字に遭遇することがある。その一つが“精心”である。これは勿論“精神”の当て字である。この“精心”は7、8年前位から見られるようになり、4、5年前は多かったが近頃は少なくなったようだ。私の場合は当用漢字の勉強不足と決め付けられるが“精心”も発想の多彩さなのだろうか。現在は卒業論文もワープロでも良いことになってますます文章や字を書く機会が少なくなった。ワープロは読みの選択が間違いない限り誤字はない。
 高度文明生活の享受によって、人間は身体活動の場を狭め“運動不足病”が多くなり、わざわざ時間とお金をかけて、運動を義務的意識のもとで行ったりしている。この伝でいけば“書く”という精巧な作業能力は、間違いなく退化していくのではないだろうか。しかし“字が汚いと人柄が疑われるよ”等の重圧感からは開放されて、やれ嬉しの一方で、折角の便りも活字では嬉しさが半減して味気ない気分になるのは私だけなのだろうか。

 さて、“書く”のが先になったが、“読む”のも色々大変なものである。その幾つかを挙げるが先ず“精読”、これは詳しく読むこと。熟読のことで専門書、座右の書はこの読み方がなされるであろう。
 次に乱読・濫読であるが、活字離れの現代にこの読み方は生存権を持っているのであろうか。最後に積読〔つんどく〕、ほぼ私の読書法である。しかしこれもせめて斜め読み程度の内容把握とその後の精読を決意・覚悟?しておかなければ、つんでおく価値もないゴミの山になる恐れを多分に持つ読書法である。
 近頃、分秒単位で一冊を読破する人たちやその方法を見たが唯々感嘆した。本を読むのはその世界に遊び、漂うと思っている私にとって、それはまるで仕事の世界を見ているようであった。最も私の“つん読法”の中間作業としては能率的で有効的な方法であろうか。
 しかし、どのような書物でも、それを読む時は、著者の世界に没入して同感し、批判し世界を共有する時を持つのであろうから、読書は作業に代替できるものではなかろう。漫画も立派に生存権を主張している。“百聞は一見に如かず”で、ずばり見えるが、あれこれと想像する楽しみが省略させられる。
 人間とは一人ひとりであって、一人に集約し類型化されるものではない。それどころか現在は個性的で創造力のある人間が求められている。想像は思い、創造は造るのであるがどちらも主体の働きかけがなければ生まれないものであろう。
 人間の生き方に今流行のmanualを得ようとするならば、それが“読書”であろう。古今東西を問わずこれまで人々は如何に生きるかを追求した。忙しい現代で時間をかけることは回り道かもしれないが、自分が生きるのに近道などありはしない。先人の人生観を一冊の書に垣間見ることこそ一番手早い方法と考えられないこともないであろう。片道切符だけ持って生まれた我々にとって、先人の生きざまはこの上もないテキストではないだろうか。しかし晴耕雨読の境地は、私にとって目下のところまだ遥かである。
(体育学部 教授)


← P.2 図書館報 P.4 →