No.78.1997.7


『グリムのドイツ語辞典』

永  田  善  久

 ”DEUTSCHES WORTERBUCH VON JACOB GRIMM UND WILHELM GRIMM“という極めて簡素なタイトルが付された巨大な辞典、それが、1838年に着手されてから1961年に一応の終巻が配本されるまで、実に123年という時間が編集作業に費やされた『グリムのドイツ語辞典』(全16巻33冊)である。
 試しに任意の1冊を手にとり頁を繰ってみる者は、必ずや強烈な印象を受けることだろう。まず、見出し語を除き全て小文字書きされた細かい活字が、1頁2段組にびっしりと並ぶ様に圧倒される。所々にラテン語やギリシア語による対照語が散見され、更に目を凝らすと、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語等のゲルマン姉妹語が、また、ゴート語、古高・中高ドイツ語といった古いドイツの言葉までもが記載されているのに気付く。そしてその後に続く、ルターからゲーテに至る300年という時間の中で生起したドイツ語から引っ張ってこられた文例の数、数、数。
 兄弟存命当時も今も、この辞典の非実用性が常に批判の的となってきた。「無意味に詳しすぎる(ベーリッヒ)」というわけだ。出版社の当初の思惑も、グリム兄弟の『童話集』がかつてドイツの家庭に普及していったのと同様、この辞典も各家庭に備えられ、常に参照されるべく正しいドイツ語の規範を示す手引書となるところにあった。しかし、手っ取り早く言葉の規範を示すということほど、兄弟の考え方から遠いものはなかったのである。辞典の使命は、個々の語の博物誌(Naturgeschichte)を記述することにこそある、と二人は考えていた。つまり、語形や語の概念を窮屈に限定しようとするよりも、その時々の語の実際の使用例を豊富に
挙げることによって語義が自然と帰納されていくような、そのような歴史的な辞書記述を兄弟は理想としたのである。ラテン語やギリシア語等が出てくるのも、学者の衒学趣味というより、ドイツ語辞典作成に当たりながらも、歴史の中で展開されてきた異文化交流による語の借用や混交等までをも漏れなく捉えようとする、兄弟の視野の広さを示すものであるといえよう。
 辞典編集のプロジェクト開始後すぐ、兄弟は存命中その完成を見ないことを悟った。にも拘らず、悲壮な努力が弛まず最後まで続けられ、そして辞典の詳細な歴史的記述の精神は後継者達にも受け継がれていった。こうして出来上がった『グリムの辞典』は確かに一般向けの辞書ではないかもしれない。しかし、それは母なる自然にも似て、求める者にとっては汲めども尽きぬ言葉の宝庫であり、ドイツ語を勉強するものが最後の砦と頼むものでもあり、従って大学にはなくてはならないものである。本学には、中央図書館2Fの開架式図書室、閉架式北書庫第3層、文系センター棟6F共同研究室にそれぞれ置いてある。 
 余談であるが、Frucht(果実)を引くと11行目にアステリスクがついており、「この語をもってヤーコプ=グリムは残念ながら永久に本著のペンを擱かねばならなかった。そこまで書かれたFの残りは私の仕事である−ヴァイガント」と欄外に注釈がある。本文中でこのように時々「私」が顔を出すのも、この辞典のユニークで味のあるところである。そして私は、上記のような箇所に出会す度に膝を正し、グリムという巨人を偲ぶ。
                   (人文学部 講師)

図書館報 P.2 →