井  上  真  澄

 研究者と雑誌との関係は、時代とともにずいぶん変わってきたことを痛感する。昭和20年代は雑誌の数も少なく、また複写機もないため外国雑誌を回し読みして最新情報を習得しなければならなくて非常に大変だったと幾度となく恩師から聞かされた。私が大学院に入った昭和50年代にはすでに複写機は普及しており、安価に論文がコピーできた。それゆえ、二世代前の研究者の苦労は全くなかったが、それでも関連ある文献を検索するのにインデックスメディカスをいちいち調べた記憶がある。その頃すでに図書館でコンピューターを用いて文献検索をすることも出来たが、それは有料で担当者と一緒に検索する際には高額になりはしないかとはらはらした。それがここ数年の学内ネットワークの整備により、様相がまったく一変した。自分のコンピューターを用いて文献検索が出来るようになり、論文の要約さえ読めるようになった。更に、いくつかの雑誌では掲載している論文の全文がネットワーク上で読めるようになった。つまり、雑誌が印刷物のほかに電子ジャーナルとして存在するようになった。更に、私が所属する学会の機関誌の速報の論文は、印刷物には載らず電子ジャーナルにだけしか掲載されない。
 電子ジャーナルの利便性を考えると、ここ数年の内にはほとんどの雑誌が電子ジャーナルになってしまうのではないかと思われる。そうなると、図書館は情報ネットワークの中継基地としての機能を持つのみで、今までのように膨大な雑誌の保管をする必要がなくなってしまう。研究者はいちいち図書館に足を運んで雑誌を読む必要はなく、机のコンピューターのキー操作だけで必要な文献が読めることになる。また、論文もワープロソフトを用いて書くから、一日中自分の机を離れることなく、論文が書けることになる。しかし、いくら雑誌が電子ジャーナル化するとしても、印刷物としての今の形態はそのまま残るようなきがする。電子ジャーナルの場合、情報の習得は視覚を介しておこなわれるのに対して、印刷物の場合読みながら重要なところに線を引
いたり、書き込んだりすることにより多覚的に習得される。私自身、コンピューターの画面上で読んでいても、文意がどうしても頭に入ってこず、プリントしたものを手にとって読んで初めて頭にはいることもしばしばである。人間はこれまで数千年の間五感を介して情報を伝え、又習得してきた。この生物としての人間が、短期間に視覚中心の情報伝達に適応出来るとは、私自身を顧みると考えにくい気がする。では、これから先図書館はどうあるべきであろうか、あるいはどうなっていくのだろうか。
 私が大学院の二年間過ごした岡崎の国立研究所では、研究者は図書館を24時間利用できた。図書館には広々とした所にソファーがおいてあり、そこで専門の雑誌の他に一般の雑誌も読むことが出来た。私は、深夜図書館に行っては、ソファーに深々と座りカラフルな雑誌の表紙を見ながら、興味があるものに出くわすと拾い読みした。また、一年間在外研究で過ごしたデューク大学の図書館にもソファーが置いてあるコーナーがあり、研究者が新刊の雑誌を持ってきては拾い読みしていた。最近の雑誌は、読者をいかに引きつけようかとして色々工夫がしてある。特に表紙がカラフルになり、また掲載した重要論文の図をそのまま表紙に使う雑誌も増えている。実際に目にとまった雑誌を手にとり眺めていると、思いがけない論文に出くわすことも度々である。このような雑誌との接し方は、電子ジャーナルが普及しても貴重なのではないだろうか。
 これから先の図書館には、情報を保管する場所としての役割は少なくなってくるだろうと思われる。それよりも研究者がくつろいで過ごせる知的空間を提供することがより重要になってくるのではないだろうか。私が所属している医学部の図書館にそのような空間がないのが残念であるが、図書館はどうあるべきかを考えると、そのような知的空間を作ることは現状でも不可能ではないのではないだろうか。
               (医学部 助教授)

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