安  藝  初  美

 鎮守の森、歴史資料館、図書館書庫。これらは筆者にとって、畏怖の念にも似た緊張感を覚える処である。足を踏み入れて全身がその場の空気に包まれると、鼻腔粘膜の刺激から始まり、皮膚表面温度の低下、視界の狭窄、そして下腹部不快感へと続く。いわゆるドキドキ感である。かといって、神社仏閣へ参拝、歴史探訪、読書が嫌いだというわけでは決してない。反対に、一過性の興奮が治まれば、静寂に身をゆだね安堵感を覚えるとともに、筆者の好奇心をますます高揚させてくれる処となる。近年こそ図書館で落ち着いて本を読むことがなくなったが、高校生の頃、日曜日の午前中には受験勉強と称して市立図書館に通い、閲覧室で小説類を片っ端から乱読したものだった。
 最近、「故郷の変遷」についてのコメントを頼まれ、資料を探しに下関市立図書館を訪れた。現存の図書館は明るい閲覧室をもつ斬新な建物である。記憶中枢に在る高い天井、足音を立てると全館に響き渡りそうな床、重厚な机と椅子、そして、木漏れ日がさしこむ薄暗い閲覧室のイメージとはほど遠いものであった。資料を入手した後、ある本を探した。筆者が下関市立図書館から初めて購入してもらった本である。
 現代仮名遣いによる『源氏物語−与謝野晶子訳−』は、当時の受験雑誌で新刊図書案内に掲載されていた。比較的高価であったので、市立図書館に新刊購入の依頼をしてみたら許可が下りた。本の到着を待って早速借り出したが、当然貸し出し期間中に全部読めるはずもないから何度も借り出して読破した。その本はそれからしばらくの間、閲覧室の棚に並べられていた。図書館に行く度に本を棚から取り出し、巻末の貸出し票を見て、筆者の後何人から読まれているかをチェックしたという想いが残る本である。
 何十年か振りに下関市立図書館を訪れ、その本に出会えると期待したが、書名は同じでも初版本とは異なる装丁の図書が書庫の棚には並んでいた。気を取り直して、筆者が最初に購入してもらったその本が、多くの人に読み継がれてここに存在し
ているのだと思うことにした。
 本来、本というものは消耗品であると筆者は思う。書店ではおびただしい数の本が陳列され、あまりの多さに目が回る。漠然と本を探しに行くと、どれから手に取ってよいかわからない。目的を持って行っても、似通った本が多すぎてついつい余分に買ってしまう。やたら新刊が目に付くが、1ヶ月も過ぎれば新刊コーナーは一変する。そして、この情報化時代に入って情報量が増加する一方、情報の質が急激に変化していくため、書籍として世に出た多くの本が消えていく。専門書でさえ、いや専門書だからこそすぐ用済みになる時代である。歴史の篩にかけられてもなお現存する古典のように、これから一体どんな本が淘汰されて残っていくのだろうか。
 『新潮文庫の100冊』というCD−ROM本が刊行されて話題になったことがあった。刊行案内によれば、『坊ちゃん』から『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』まで、『アンナ・カレーニナ』から『ティファニーで朝食を』まで、『人生論ノート』から『沈黙の春』等を含めて100冊の文庫本を1枚のCD−ROMに収めてあるらしい。CD−ROMが図書であるかどうかはわからないが、筆者にとっては『坊ちゃん』をコンピューターのディスプレイ画面で読む気にはなれない。行儀は悪いが、本を片手に寝転がってページをめくるほうが性に合う。しかし、これを一種のデータベースとして、現代読本100選の集約とみればなかなか興味深い。
 本が消耗品であるが故に、「これからの時代を越えて人口に膾炙されるような本」と邂逅すること、その機会が多ければ多いほど幸いであると思う。学生諸君にも、「将来人々に読まれ受け継がれていくであろう本」とめぐりあう機会をできるだけ多くもって頂きたい。乱読でもいい。しかし、莫大な情報量に惑わされないためにも、そのデータベースには先人達が残してくれた「古典」を是非インプットして欲しいと願う。
               (薬学部 助教授)

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