→(前頁つづき)ある、一つの奇妙なオブジェである。
 英国独持の棟続きの長屋がたちならぶこの付近は、今も昔もかわらず、学生の下宿として使われている一角で、ジーザス・グリーンという広大な緑地公園はすぐ近くである。そこにある一軒の家の二階部分の外壁に、長さ1メートル、直径20センチメートルくらいの、黄金色のらせん状のオブジェが取りつけてあるのである。そこを通りかかったとき、私は、不思議なものがあるとは感じながら、その由来にまでは思い至らなかった。その建物に案内板などはなく、
しかと確かめることはできなかったが、地理的に本文中の記述にぴったりのこの家こそが、若き Watson が住んだアパートに違いなかった。
 私にとってこれは、1年間のケンブリッジ滞在で得たセレンディピティであった。二人の科学者による世紀の大発見と、古いアパートと、古本屋。この三つが、ケンブリッジという町のなかで、声高には語られずとも、しっかり結びついている。このようなことが、文化であり伝統の奥行きの深さではないだろうか。
(理学部 教授)

「文明と効き手」
笹川 洋平

 日常生活では、右利きの人にとって当たり前のことが、左利きの人にとっては意識して適応しなければならない面倒なところが少なくないそうである。例えば、ドアの取っ手の回転方向は右利きの人にとっては自然な動作となるように作られているが、それは左利きの人にとってはかなり無理な動作要求する作りになっているらしい。はさみ、ねじ、鍵、包丁の刃、衣服のボタンのような昔からあるモノから、自販機のコイン投入口、改札機のチケット挿入口、カメラ・複写機・携帯電話の操作ボタンの配置、パソコンの操作画面に至るまで、右利きの人が使うことを前提に作られているようである。日常生活で左利きの人が「普通の道具」を使いたければ、右利き用に自らを適応させる以外にはないようである。
 もちろん「普通の道具」の中にも構造上、左右対称の作りで、それ自体は利き手を問わないようにみえる道具もある。例えば、箸がそうである。しかし、箸は右手で扱うことが文化的な約束ごとになっているといってよいだろう。文化といえば、文字はどうだろうか。日本語の場合、漢字、仮名、カタカナと3種頬の文字があるが、いずれも上から下、左から右へ向かって書かないことには、滑らかにバランスよく書くことはむずかしく、右利きの人によって書かれることを前提に「デザイン」されているように思われる。文字に関しては欧米の言語も大差はないだろう。
 本はどうであろうか。「凡庸なる人」が気づかない、隷従や不正義を暴露する思想書といえども、本としての物理的な作り自体は右利きの人によって読まれることを暗黙の前提に装丁されている。ちなみに、どんな本でもよいから、本を左手で開いてみるとよい。左手が邪魔をして文字を遮るだろう。ところが、右手で開けばそのような不具合は起こらず、目で文字を追いかけながら次のページヘ移ることが簡単にできるはずである。左手ではそう簡単ではない。
 文明にとって最も基礎的な行為である「読み・書き」が右利きの人によって担われることを前提にするようになったのはいつの時代からなのかと疑問に思い図書館で調べてみた。が、わからなかった。門外漢の私の調べ方が悪かったのかも知れない。しかし、調べるうちにチンパンジーには利き手があって左・右利きの比率はほぼ半々であるらしいということや、人間の乳幼児も同様に左・右利きの比率に大差はないらしいが、5歳頃までには右利きに矯正されるために左利きの人の割合は10%程度にとどまることがわかった。
 おかげで、文明が右利きの人を前提としていることはやはり大変、不可思議なことだと確信するようになった。遠い昔、左利きの人々と右利きの人々とのあいだで人類史的な闘争が展開され、右利き文明への道が開かれたのであろうか。そんな空想の翼を広げて、独り思いに耽る楽しみが一つ増えた。これも図書館という文明のおかげである。
(商学部 助教授)


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