閲覧室の午後 人文学部教授 辻部 大介

 本好きにとって図書館は特別な場所である。
 私の図書館との出会いは、小学校にあがる前後の時期、住んでいる団地にやってきた「移動図書館」であった。バスを改造して車体内外の側面部にしつらえられた書棚にびっしりと並んだ本の列に、すでに絵本から「字の本」に移行していた小児は目をみはり、未知の本との遭遇に胸をときめかせた。おぼろげながら記憶にあるのは、エラリー・クイーンの子供向けのシリーズ(『白い象の秘密』ほか)と、もはや作者も題名もわからないが、水星が太陽に近いため高温に苦しむ場面が強烈な印象を残した外国の宇宙旅行もののSFである。小学校の図書室では、ポプラ社の三大全集(明智・ホームズ・ルパン)との出会いが待っていた。「そらいろ」等、色の名を冠した童話集(アンドルー・ラング)も忘れがたい。やがて市立図書館に自転車で通うこともおぼえ、アーサー・ランサムを読破したのはそこでのことだ。ただし全12冊中の1冊(『女海賊の島』)のみは、いつ行っても見当たらない。内容をあれこれ想像し、ついには夢にまでみた。わが図書館史における空白の六年間(中・高)を経て、大学入学とともに図書館との交わりが復活し、以後とだえることなく現在にいたっている。
 大学図書館は、ごくふつうの本好きにとってはやや敷居の高い施設といえる。なにしろ置いてある本が高尚だ。授業その他で題名を見知ったアリストテレスだのアウグスチヌス(!)だのの訳書を手にとってはみるが、目は活字を追っているものの何ひとつ頭にはいってこないという、空しくも辛い時期が長く続いた。本好きならざる、図書館とは試験勉強をするところであるとの認識とともに入学してくる少なからぬ大学生たちが、大学図書館の真価を即座に理解できないとしても、当然のことだろうと思う。

 ある時期、大学図書館の閲覧室で長い時間を過ごすのが習いだった。大学院に籍はあるが出なくてはいけない授業はすでになく、まとまった論文を書くことが期待されているがいついつまでと期限が切られているわけでもない、

そんな宙ぶらりんの状況を、研究に励むかわりに気ままな読書でやりすごしたことを、悔いているかといえばそうでもない。この階のこの座席、というのが自分の中で決まっていて、近くにプレイヤード叢書をずらりと並べた棚があり、そこから取り出した一冊の中の一編を、数日かけて終わりまで読む。フランス語に限れば、たいていのものは時間さえかければ読める、という自信は、教室での訓練にもましてこの一時期の読書に負っている。菊池寛の「半自叙伝」の中に、小説家を志すも書けずにいた雌伏の時期、公立図書館に通い英語の通俗小説を読み漁ったことで後年の小説作法はすべて培われた、との述懐を読み、大きくうなずいたものだ。
 図書館では必要な本を借り出し、読むのは研究室か自宅、というふうになって久しい。それでもごくたまに、土曜の午後など、中央図書館にぶらりとはいり、目にとまった書架の本を手に、西側の閲覧スペースで何時間かを過ごすことがある。人影のまばらな、居心地のよい空間の中、ゆったりと時間が流れ、読み終えたばかりの本の余韻と、贅沢な時間をもったことへの満足とともに、私は図書館を出る。

 図書館は静かな場所、というのが経験にもとづく実感なのだが、案外にぎやかな場所なのでもあるらしい。つい最近、『エクス・リブリス ニューヨーク公共図書館』という映画が作られていることを知った。監督はドキュメンタリー映画の巨匠として名高いフレデリック・ワイズマン。3時間を超える長尺を2分半に縮めた予告編(http://www.zipporah.com/films/46)を見ると、肌の色も年齢も属する社会階層もさまざまな人、人、人が、ひたすら喋っている。昨年10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されたというこの映画の日本での劇場公開をうかがわせる情報は、いまのところ見当たらない。図書館、それに映画を愛するみなさま、上掲URLの動画をぜひご覧いただき、近い将来、福岡のスクリーン(KBCシネマか、ことによるとシネラ?)で全編が観られるようになることを、どうかともに祈念してください。