東日本大震災から7年 法学部教授 櫛田 久代

(一)はじめに

 わが師匠川添昭二先生が今年三月に亡くなられた。痛恨の極みである。いまだにその喪失感から脱しえていない。先生はその稀にみる高い研究能力・博覧強記と温情の深さで広く知られた日本史研究の碩学で、斯界の金字塔的な研究業績を数多く残された。その功績はとてつもなく大きい。これまでにいくつかの追悼文を書いたけれども、先生の研究・教育の面での大きな業績、はたまた社会や地域への甚大な貢献など、いちいち紹介することは無理なことだし、ちょっと調べれば容易に知られることでもあるので、ここでは先生との出会いに即して、人生における奇遇なる巡りあいがいかに決定的でかつ大事であるかということについて述べてみたい。 

(二)出会いとお別れ

 先生は長く九州大学文学部におられ、平成二年定年退職とともに福岡大学人文学部に来られた。福大ご在職七年、平成九年(一九九七)四月にその後任として不肖私が山口大学人文学部から赴任した。今私がいる文系センター棟の研究室はそれまで先生がお使いになっていた部屋で、先生の置き土産もいくつか残っているし、季節を彩る窓外の油山の山並みを先生もよく見ておられたのだろうなと思うと切ない。
 私が九州大学に入ったのは昭和四三年(一九六八)四月、大学紛争の高揚期であった。今の中央区六本松には当時九大の教養部というのがあって、学部に移るまえの一年半、ここで教養教育を受けていた。私は入学当初英文学志望であったものの、いろいろ悩んだあげく一転国史学科に落ち着くことになる。無論この段階で箱崎の文学部にどのような教官がおられるか知るよしもなく、あてもない気の向くままの進路変更であった。
 他方、先生はそれまで数々のご苦労の多い学究生活を重ねられたのち、私が丁度大学に入った昭和四三年より九州大学文学部で講義を担当なさることとなる。翌年には助教授に昇進され、それこそやる気満々の新進気鋭の若手教官であっただろう。思えば文学部に入ってきた私は、そのような事情は知るはずもなかったが、

この若い情熱的な先生の魅力にぐいぐいと引き寄せられたことは当然であっただろう。それは無論私だけにいえることではない。多くの先輩・後輩たちも同様である。
 学園紛争のさなか、先生も学生に対する研究指導が思いに任せず不本意であったようで、ある時―大学院の修士課程に進む時だったか―、私が足利尊氏と北畠親房の政治思想の比較をやってみたいと申しあげたら、先生は「うれしいことを言ってくれるね」と仰った。
 私はそれこそ全く偶然ではあったが、川添先生の学問研究が本格化するその時点に立ち会えたわけである。そして今年先生のご逝去にも立ち会えたわけで、いわば先生の求道者的な学究人生のほぼすべてを目の当たりにすることが出来たのである。このことは今になって初めていえることで、その過程では皆目わからなかったことである。この経験は本当に偶然なこととはいえ、私にはこの上もない幸運であった。というのは、教官といえども転任や転出などごく普通のことで、指導を受けていた教官が急にどこかへ移るとなると困るのはその指導下の学生である。私はそういった経験をすることなく、みっちりと先生の影響を受けることができた。これは本当によかった。

(三)博覧強記と博愛精神

 先生はご自分の研究テーマのご研究はもちろん、自治体史や地域史に関する本、さらに他の研究者たちの研究成果の公表も積極的に応援され紹介された。先生は、新刊本の書評・紹介、解題・序文・跋文など書籍の冒頭を飾る文章も多く書かれた。無論請われてのことではあるが、この種の依頼を受けると先生は快諾されて、含蓄深くしかも格調高い文章を即座に書かれた。平成九年(一九九七)三月、先生の古稀祝いの際自費出版された『解題・序跋集』(櫂歌書房)はそんな文章を集めた著書であるが、それだけで三〇〇頁あまりを占めている。先生の学問研究の性格の一端を物語っている。無論それを可能にしたのは先生の博覧強記と博愛精神であったことは言うまでもない。書籍の評言・紹介・推薦などの文を書くためにはその書籍の内容を知らねばならない。先生がそのために割かれた時間を考えると脱帽のほかはない。