書架とブラウジング 医学部講師 芝口 浩智

 書籍を借りるための図書館の利用は、小学生からせいぜい中学生の頃までで、それ以降は試験前に時間を潰す、よく言えば勉強場所としての利用が多かった。小学生の頃に借りた本、ワッハワッハハイの話をしよう…で始まる「ワッハワッハハイのぼうけん」という珍妙な題名で今でも記憶に残る本も小学校の図書館で偶然出会った一冊である。学部学生くらいまでの読書量は同年代では多い方だったと思うが、当時の書籍の主な入手(読書?)先は図書館より片田舎の本屋、しかし購入はごくごくたまで、ほとんど立ち読みというとんでもない客だった。特に高校時代は通学時に商店街を通るのをいいことに週に何度か、目をつけられないために3~4軒の本屋をはしご、計数時間にわたって当時まだビニールカバーのなかったコミックスや文庫本を読み散らかして帰るという、今思えば大変に申し訳ないことをやっていた。心からお詫び申し上げます。
 さて、図書館や街の本屋の書架の間をブラウジングして、何だか気になる装丁やタイトルの本を手にとってみるというのは、存外な新しい発見につながるもので、例えば、当時全く興味のなかった陳舜臣の「十八史略」など中国歴史小説や景山民夫/山藤章二の「食わせろ!!」のようなエッセーもブラウジングがきっかけで手に取り読み始めたジャンルだった。一方、最近は、ネットで書籍や文献などを検索することが多くなりキーワードによってピンポイントで目的のもの“だけ”を入手できるようになった。それでも、PDFが手に入らない論文など、雑誌や合本製本の中から目的の論文を見つけるまでパラパラとページをめくってブラウジングしている間に、なんだか関連性のありそうな、あるいは面白そうな論文に出会うことが今でもある。こうして考えると、キーワードを使ったネット検索は便利で非常に効率的な方法ではあるが、「星の王子さま」や「ごんぎつね」あるいは「ちびくろさんぼ」といった有名な童話ではなく、「ワッハワッハハイのぼうけん」のような意外な本と出会えるという意味では、街の本屋や図書館でのブラウジングは捨てがたい魅力を持つ方法なのだと思う。

 このブラウジングという言葉、現在では、書架を眺める行為よりもむしろインターネットのWebページを閲覧する行為、Webブラウジングの方が有名である。ものの本によれば、ブラウジングという言葉は、そもそも「草を食む」の意味で、転じて本や雑誌を拾い読みする行為を指すようになり、今では「広範で多量な情報源から何かしらの基準をもって必要なものを選び取る行為」と定義されているらしい。ところが最近、この“何かしらの基準をもって”が物議を醸しているようで、先日もテレビのとある番組でフィルターバブルなる用語がエコーチェンバー現象とともに取り上げられていた。ネットでキーワードを使って検索をかけた場合やニュースサイトでは、検索エンジンなどのアルゴリズムによるフィルターがかかっており、個々人の嗜好に合わせた情報を優先的に提示するという。結果として、フィルタリングされ偏った情報の泡(バブル)に閉じ篭ったコミュニティが生まれ、このフィルターバブル内での意見の過激化・先鋭化(エコーチェンバー現象)とコミュニティ間の分断が起こり、ついにはヘイトスピーチや弁護士大量懲戒請求に発展し、アメリカではトランプ政権が生まれ、イギリスはEU離脱を決め、欧州各国では極右と極左の政党が躍進した、とある。
 インターネットによりグローバルな情報に容易にアクセスできる環境が整ったはずなのに、事実やエビデンス、客観的知識によらない状態“post-truth”や“post-science”が幅を利かせるようになってきている現在、グローバルな視野で多様性を担保するのはとても難しいようで…、そう、結論としては、バブルに穴を開け批判的な視点を磨くべく、たまには図書館や本屋など実店舗へ足を運んで書架の間をブラウジングしよう…かな。

The Weston Library (part of the Bodleian Libraries):寄稿者撮影