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 雅文学への誘い 登場作者紹介

鳥山芝軒(とりやま しけん) [1655~1715] 
25.「和山居艸」
江戸時代前・中期の漢詩人。
名は輔寛、字は碩夫、通称は佐大夫、別号に入斎、鳴春など。儒学を学んだが、唐詩を好み、自ら詩人と称した。終生仕官せず、詩の教授に専念。 詩集に『芝軒吟稿』など。

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谷文晁(たに ぶんちょう) [1763~1841]
60.「名花図賛(名花交叢)」、61.「麓谷二集」
江戸後期の画家。
字、号ともに文晁、名は正安、通称は文五郎、別号に写山楼・画学斎など。
狩野派、土佐派、南宗画、北宗画、西洋画などの手法をとりいれて独自の画風を創出、江戸文人画壇の重鎮となった。
著書に『文晁画談』、『本朝画纂』など。
田安徳川家につかえ、詩人としても著名な麓谷を父として江戸に生まれた。
1788年(天明8)、画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信に認められてその近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いた。
卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも「山水図」(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に「彦山真景図」や「鴻台真景図」などの真景図や『名山図譜』を制作、「木村蒹葭堂像」のような異色の肖像画も残している。

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貝原益軒(かいばら えきけん) [1630~1714] 
52.「自娯集」
江戸時代前・中期の儒学者、博物学者。
名は篤信・字は子誠、通称は久兵衛、別号を損軒と号し、晩年に益軒と改めた。
福岡藩士・貝原寛斎の子で、医学を学び、朱子学を奉じた。教育・歴史・経済の面にも功績が多い。
初め福岡藩主2代目の黒田忠之に仕えますが、その怒りに触れて浪人となり、医者として身をたてようと医学修業に励んだ。数年後に父のとりなしで3代目藩主光之に仕えて、約10年間京都に藩費遊学した。帰藩後、君命で『黒田家譜』を、ついで『筑前国続風土記』を晩年までかかって完成。
陽明学者から朱子学者に転じ、早く『近思録備考』を著し出版したが、その経験的学風から朱子学の観念性への疑問を募らせ、それを体系的に論述した『大疑録』を晩年にまとめた。
博物学では江戸期本草書中もっとも体系的な『大和本草』を編纂した。
『大和俗訓』のような和文による啓蒙書など、数多くの著述がある。

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頼山陽(らい さんよう) [1781~1832]
9.「詩仏苦吟帖」
江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人。
名は襄、字は子成、通称は久太郎、別号に三十六峰外史など。
広島藩儒・頼春水の子で、幼時より神経症に悩まされ治療を兼ねて、18歳のとき江戸で尾藤二洲らに学ぶ。21歳で広島を出奔、脱藩の罪で自宅幽閉。24歳の時に廃嫡のうえ、幽閉を許された。30歳で父の友人・菅茶山の廉塾の塾頭になるが満足せず、翌年、京都に出て塾を開き、梁川星巌・大塩平八郎らと交わった。
やがてその名声も高まり、篠崎小竹などの親友や多くの門人に囲まれ、京都の文人界の中心人物となっていった。
幽閉中に起稿し、日本の武家の歴史を記した『日本外史』は、死後出版され、幕末の尊攘派志士たちに強い影響をあたえた。
他著に『日本政記』(1832)、『山陽詩鈔』(1833)、『日本楽府』(1828)、『山陽遺稿』(1841)など。

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森春濤(もり しゅんとう) [1818~1888]
34.「高山竹枝」 69.「新暦謡」
幕末・明治期の漢詩人。
名は魯直、字は希黄、通称は浩甫。
漢詩の清新な詩風を唱えた。
生家は尾張一の宮の医家であったが、詩作に興味をもち、鷲津益斎の門に入り、同門の大沼枕山と共に双璧と称された。
37歳の時、京都に出て梁川星巌に学び、詩名を現す。
55歳の時、東京で茉莉吟社を創設し、翌年に機関誌として『新文詩』を発刊。また、『東京才人絶句』(1875)を編集し、明治初期の漢詩壇に君臨。
遺稿詩集に『春濤詩鈔』。

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元政(げんせい) [1623~1668]
38.「温泉遊草」
江戸前期の日蓮宗の僧。
俗名は石井吉兵衛、法名は日政、号は不可思議、日峯妙子など。
深草の元政と通称。
父・石井元好は地下官人の家柄で、梶井宮に出仕し、のち毛利輝元の家臣となったが、仕えを退き京都に住む。
13歳で彦根藩主・井伊直孝に出仕、26歳で仕えを退き、京都の日蓮宗妙顕寺の日豊のもとで出家し、仏道を修行した。
学僧であったが、漢詩では石川丈山と並び称せられるほどに文学者としても有名。
和歌は松永貞徳の門人で、家集に『草山和歌集』。
和文では『身延道の記』、漢文では『草山集』、『扶桑隠逸伝』など多くの著書、校訂本。

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 【参考文献】
  日本大百科全書(ニッポニカ)/小学館
  日本国語大辞典 第二版 /小学館