11.草木撰種録 そうもくたねえらみ

横版一舗(24.0×38.6cm) 積□堂徳左衛門(せきこうどう・とくさえもん)撰
 萬延元年(1860)刊 宗像郡 八並觸庄屋(やつなみふれしょうや)中蔵板

所蔵情報(草木撰種録そうもくたねえらみ)
内容写真(草木撰種録そうもくたねえらみ)

 植物に雌雄があることを経験に基づいて論じた書物は、児島如水の「農稼業事」(文政元年刊)に稲の雌雄を説いたものが最初とされる(上野益三/博物学年表)が、その後文政十一年(1828)正月には小西藤右衛門の「農業餘話」が刊行され、稲 ・綿 ・麻 ・大根 ・種菜 ・牛蒡 ・蚕豆 などにもそれを及ぼし、同年九月下総の宮負定雄(みやおい・やすお)によって「草木撰種録 男女之図」の一枚摺りが出てニ十種の草木と十三種の果実や種子の雌雄が図解された。本品もまさしくこの宮負版を踏襲したものと思われるが、図面左下の解説文には「五こく(穀)はもとより、やさい(野菜)、竹木にいた(至)るまで(迄)、男女しゃべつ(差別)有、女たね(種)う(植)ゆれば、ばくだい(莫大)のゑき(益)ありとて、東都積□堂徳佐衛門成せる草木撰種録にゑ>き(益)のあつ(厚) きこと、くは(詳)しければ略す。只々図してひろ(広)く人々にし(知)らせて、大ゑき(益)を希(ねがう)也。云々」とあって、宮負説が伝播して多くの異板を生じていることがわかる。本品はその一。宗像郡の庄屋の目に留まり、有益のものとして板行配布されたものの一つであり、三十四種を記す。全く同じ物に基づくと思われるものが各地の篤農有志によって施印され、多く散在している。その間に、実際の作者についてもいろいろの異伝が生じたものであろう。
 小西藤右衛門、宮負定雄は何れも平田篤胤の門人であり、定雄の「草木撰種録」は篤胤の日記によれば文政十一年(1828)九月八日に、その彫刻を彫師六左衛門方へ依頼し、以後いわゆる気吹舎(いぶきのや)蔵板として数百枚単位で摺出し、門人等が出身の国々への土産物として全国へ広まった。平田学の伝播にも大いに力があったものと思う。