18(A).無盡集(外)むじんしゅう

半紙本一巻一冊 保久志(ほくし)編 紫廣(しこう)補助 嘉永二年(1849)二月刊
 久留米 中沢嘉右衛門(なかざわ・かえもん)彫刻 彩色版

所蔵情報(無盡集(外)むじんしゅう)
表紙写真(無盡集(外)むじんしゅう) 内容写真(無盡集(外)むじんしゅう)

 本書も又、「君子訓」と同じく、久留米の中沢氏によって彫板された田舎版の俳書であるが、特記すべきは、本書本文丁の凡てにわたって、彩色摺りが行なわれ、一応の達成度を示している所にある。彩色摺りの技術は墨や朱の一色摺りとは違って、色数の分だけ色板を作り、それを重ねてズレのない摺りを心がけねばならず、その技術は当然三都の大書肆においても宝暦前後(1750頃)に始まるにすぎず、寛政前後(1790頃)辺りから、名古屋・仙台・和歌山そして長崎といった地方の書肆においても漸く実施される状況だったので、それ以外の地方で行なわれた例はごく僅かなものに過ぎない。それを本書のような程度迄よくなしとげた中沢氏の技術は特筆されるべく、また前掲「君子訓」における板刻のキレの良さと、黒色の鮮明さとを併せ見た時、この人の存在は九州の出版業界に極めて大きな地位を示すものと見てよい。本書奥付けの署名下の印は「論語」を出典とする「待賈堂(たいかどう)」の屋号を称していて、とすれば、この人は彫師を本業とする傍ら、恐らく出版書肆としての業務にも手を広げていたものと思われ、その経歴の解明が待たれる所である。
 本書編者の保久志、補助の紫廣という二俳人については、残念ながらその経歴を明らかにし得ないが、明らかにし得る入集メンバーの多くは久留米俳人であり、天保−明治の間の筑後俳壇を知る上での重要な資料となろう。「筑後俳諧史」(抱月庵(ほうげつあん)編 ・大正十三年刊)によって、判明する入集俳人の幾人かについて示しておく。

方舟 高良内村 庄屋 天保十五年(1843)没
山公 東久留米 久富氏 嘉永三年(1850)没
松代 筑島町 上野氏妻 嘉永三年(1850)没
赤鱗 庄島 赤司氏 嘉永四年(1851)没
東鶴 日吉町 高村氏 安政五年(1858)没
蘭堂 通町 太田氏 文久二年(1862)没
米路 通町 米屋 元治元年(1864)没
杜明 米屋町 堤氏 明治三年(1870)没
木屑 呉服町 桐氏 明治十三年(1880)没



18(B).無盡集(内) むじんしゅう

半紙本一巻一冊 保久志(ほくし)編 紫廣(しこう)補助 嘉永二年(1849)二月刊
 (A本よりもやゝ早印) 久留米 中沢嘉右衛門(なかざわ・かえもん)彫刻 彩色版

所蔵情報(無盡集(内)むじんしゅう
内容写真(無盡集(内)むじんしゅう)

 (A)本と同板だが、題簽を欠く代わりにその摺りの時点は、本書の方がより早いものと思われる。ノドの部分にある丁付も、本書はおおむね揃っているが、(A)本は殆どが削除されており、また順番もばらばらで後印本の特徴を示している。