2.農家訓(外)のうかくん

半紙本一巻一冊 山崎普山(やまざき・ふざん)著 寛政十二年(1800)序刊  筑前薬院 推移軒(すいいけん)彫梓

表紙写真(農家訓(外)のうかくん) 内容写真(農家訓(外)のうかくん)

 序文迄いれても全部で十九丁半の薄冊だが博多という地方の文化を考える上で、極めて重要な書物であり博多板と確認出来る書物の現在最も早期の出版物である。巻末に「筑州薬院 推移軒彫梓」とあって寛政十二年正月の序文の日付けからみて、この年の刊行である事を疑う必要はない。
 著者の山崎普山は福岡藩医山崎杏雨(やまざき ・きょうう)の二男であり、同じく医業を嗣いで法眼となる。享保十四年(1729)の生まれゆえ、寛政十二年には七十二歳。父子二代にわたって野坡系の俳人としても著名であり、俳号は杏扉(きょうひ)。明和五年(1768)刊「雪見舟」を初めとしてその撰著は刊 ・未刊あわせて十五 ・六部にも及ぶ。
 普山は民間教導にも力をそゝいで、本書以前にも教訓本として「教訓ゆき平なべ」(32番)一冊を寛政九年(1797)に大坂で刊行、また本書の後、文化三年(1806)には武丸村の孝子正助の五十回忌にその行状を一枚摺り(3番)に作り、施印(売り物としないで、希望者に配り与えること)している。この一枚摺りは、やはり薬院の推移軒が刊行しており、普山との厚い関わりが見てとれる。
 本書序文には、藩内の諸所に旅して、「或は寺院に舍(やど)り、或は村長(むらおさ)のもとの仮寝に、賎男、しづのめをあつめて農家の心得と成らん事どもを説く」とあって、今で言えば、県内各地の公民館などを巡回して農業講演を試みる有識者の役まわりを務めた人物ということになろう。その講演記録を纏めたパンフレットを刊行したのが本書となったわけで、恐らく刊行費用等も普山自身が出資し、関わりのあった彫刻師の推移軒に依頼して作らせ、無料で配布したものと思う。地方における出版という当時最新の文化事業が、こうした民生に密着し た所から根づいていく辺りが、地方出版の心意気というものであろう。