8.家學小言(内) かがくしょうげん

大本一巻一冊 亀井昭陽(かめい ・しょうよう)著 [安政四年(1857)刊] 
 [筑前福間浦 泰成堂太四郎(たいせいどう ・たしろう)彫] 翫古堂(がんこどう)蔵板

家學小言(内)かがくしょうげん
表紙写真(家學小言(内)かがくしょうげん) 内容写真(家學小言(内)かがくしょうげん)

 南冥の父聴因(ちょういん) に初まりその子 ・昭陽まで三代にわたる亀門の家学の基本的な立場を三十三章にまとめたもの。昭陽自撰の跋文に「小言ハ我レ一圭禅師ノ為ニ遽トシテ起草スル所也」とあるように、長崎に遊んで唐話学に秀でた一圭禅師こと遠山荷塘(かとう) の求めに応じて執筆されたものである。荷塘の人となりについては、早く山口剛氏の「荷塘印影」に紹介されて有名だが、天保二年(1831) に三十七歳で没するので、文政七年(1824)は三十歳、昭陽は五十二歳であった。
 本書とは別に、見返しを持ち、亀井恒(かめい ・ひさし)撰文、豊福覃(とよふく ・たん)書の序二丁と巻末に「剞□筑前福間浦 泰成堂太四郎」と彫師の名を刻んだ一本があり、それが完本であろう。見返しには「安政四丁巳新鐫」の刊記があり、恒の序文も又安政四年八月一日の日付を持つ。しかし本書は右の見返し、序、彫師名を何れも欠き、その代り本文と跋の全丁にわたって昭陽の子暘州の筆と思われる朱 ・墨二筆による詳細な注記が施され、しかも内題下には一つは「豊福覃印」と訓める朱印二つが実捺されている。恐らく宗像社宮司で暘州門の豊福氏が、本書を刊行するに当り、序文を刻する前に手元に置いた試し摺りか、師暘州に差し出した見本摺りの一本であろう。又版心には「翫古堂蔵」の文字が刻まれるが、これは暘州か豊福氏の学塾の名前ではなかろうか。又、福間の泰成堂太四郎という彫師は「筑紫遺愛集」(慶応四年刊)の巻末彫師名一覧の最後に「宗像郡福間町 甘木屋太四郎」と見える人物と同一人かと思う。当時福間から芦屋辺りにかけて、こうした出版関係者が居住していたらしいことは、例えば大隈言道が文久三年(1863)に「草径集」を刊行した際、その「二篇も芦屋剞□家に頼み、ほらせなどいたし可申候」などという文面の手紙を、飯塚の門人小林重治宛に出したものを見ること によっても知り得る。因みに本書の本文及び跋の板下文字は明らかに昭陽の自筆である。。