『わすれくさ』にみる九州の歳事

    鷽替は、元来修正会【しゅうしょうえ】(寺院で正月に修する法会)で使われるケズリカケ(神のよりしろ依代として木を削りあげたもの)が、 天神さまのお使い鳥の鷽に形を整えたものである。鷽が天神さまの使い鳥とされるのは、鷽という字が學問の「學」に似ているからという。
    太宰府天満宮では一月七日、鷽替の神事がある。これは凶事がうそとなり、吉事と替わるという神事で、鷽を替えあうことによって、 人が知らず識らずについている嘘を、天神さまの「誠」に替えていただこうというものである。
    参拝者は各自、木製の鷽を握り、社務所からまぎれこんでいる社人の手にある金鷽と取り替えようと、ひしめき合う。 鷽は社務所で売っているが、防火のまじないとして神棚にまつった前年の鷽を持って参加するのが建前である。金製の鷽十二個を 当夜神官が変装して持ち込み、この群れに加わる。替え当てた参拝者はその年の吉運を得るとして社務所で神酒などを授かる。
    鷽自体は柳の木で作ってあり、民芸品となっている。現在でも初詣に、木彫りや陶器製の鷽を販売している。
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    江戸時代には、旧暦正月十五日の小正月に行われていた祭事で、年の初めにその年の繁栄を祈って、 山から神の依代である松を伐り、家に迎え入れるという意味合いの民俗行事。
     江戸時代の松囃子は博多町人が年に一度福岡城を訪れて、黒田の殿様に祝賀を述べ、 殿様から酒肴を賜る機会であり、終日町をあげて浮かれ楽しむ行事だった。津田元顧【つだもとこ】の「石城志【せきじょうし】」 <明和六年(1765)写>によると五本の笠鉾【かさぼこ】を先頭にして、福禄寿・恵比寿・大黒の三福神の姿に仮装した者が馬に乗って続き、そ の後ろから博多津中の人々が様々な仮装をして、笛・太鼓・鉦【かね】・三味線ではやしたてて唄を歌い、ふざけあって市中をねり歩き、 参加者は数千人にものぼったことが記されている。
    現在は五月の博多どんたくに於いてその名残りを見ることができる。
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    ぱいろむとは、端午の節句の祝いと、夏に向け水の神である龍神を鎮める行事で、 長崎旧市内海岸沿いの若者たちが舟を並べて競漕するものである。起源は古く千年前くらいで、 龍神信仰のある中国や東南アジアの影響を色濃く受け、長崎開港後まもなく中国船によって伝えられたと言われる。
    「長崎聞見録」<寛政十二年(1800)刊>には、ぱいろんとあり、中国の福州(福建省)ではpeelouと呼ばれ、 名称は変遷しており、また平戸商館長であったリチャード・コックスの元和三年(1617)五月の日記では、ペーロンの語源は白龍の字を充てた 支那音で、ぱいろんが転訛し、現在はペーロンが一般的な呼称である。
    ペーロン(爬竜船または競渡船【けいとせん】)は、長崎に来ていた京都の公家を喜ばせる御前行事でもあり、 古来からの漁民集落である飽の浦などで伝統が受け継がれ、三十三人乗りのペーロンには町印、浦印の幟が立ち、漕ぎ手二十八人のほか、 太鼓手、銅鑼【どら】叩き、カジ取り、潮くみなどが乗り、撞木形【しゅもくがた】の櫂で競漕する。海上の応援舟、見物舟、 物売り舟や海岸を埋める見物人とが一体となり賑わう行事である。
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    博多祇園山笠は、博多の総鎮守櫛田神社の相殿に祀られている素盞嗚尊【スサノオノミコト】の祭りで、 言い伝えでは、博多承天寺の開山聖一国師が寛元元年(1243)、流行病退散を祈祷したせがき施餓鬼棚に乗って博多津中を舁きまわらせたのに 始まるといわれている。
    貝原益軒の『筑前国続風土記』<元禄十六年(1703)刊>に、江戸初期の山笠の様子が記されている。当時は旧暦六月十五日に行われており、 六本の作り山は、木で作った高い台の回りに布を巻いて飾り、その上に故事に学んで衣服甲冑を着せた人形をすえ、旗やのぼり幟をささせ、 さまざまな場面を作った非常に大きいものだった。これを櫛田神社に奉納した後、流(【ながれ】豊臣秀吉による博多町割に端を発した、通りを基本軸 に置いた町の集合体の代表名称。十カ町前後で形成された組織が一つの「流」となり、山笠や松囃の運営単位となる。)ごとに博多の町中を担いでまわった。 この日は国中の男女や諸国の遊客が、作り山を見ようと数日前から博多の町に集まり、泊まり客も多かったようで、今と変わらず たいへんな賑わいをみせていたという。
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    旧暦八朔【はっさく】(陰暦の八月一日)の前夜半、不知火海に出現する神秘の火。 何かわからぬ火という意味で、古来九州筑紫の八代海湾の名物とされ「万葉集」以来詩歌に詠まれている。
    「肥前風土記」によると言い伝えでは二千年前、景行天皇が九州征旅の途中で、暗夜海上に点滅するこの霊光に導かれ、 無事八代県豊村に着岸されたが、国人たちは誰もその正体を知らなかった。この故事から「しらぬ火」と呼ばれるようになったと いわれる。不知火町の永尾剣神社や薬師堂などの高台からが最もよく見える。
    沖合はるかに、はじめは、ぽつぽつと光点を生じ、にわかに横ざまに燃え広がるかと思うと数キロに渡り、 燦爛たる青光が明滅離合する。この間約一時間、まことにこの世ならぬ美観である。
    不知火という現象は、光の屈折や、発光生物によるもの、あるいは対岸や沖の漁火など、様々な説が考えられている。
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