配布資料1.恵斎と秋圃(比較年譜) このページをPDFで見る

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鍬形恵斎

本姓田中(駿河の人)。
那須の農家(後江戸へ出、畳屋を営む)赤羽氏の養子となる。
幼名三治郎。
画名北尾政美【まさよし】、杉皐【さんこう】。恵斎、後、鍬形と改姓。紹眞【つぐさね】と号す。
斎藤秋圃

初め池上氏。又葵氏。後、斎藤氏。幼名市太郎。
名は衛、諱は相行、韋行。通称亦介。
初め足斎、双鳩、一阿弥と号し、後、秋圃、土筆翁、茗圃。
1764 恵斎1歳 明和元年 誕生
1768 秋圃1歳 明和五年 誕生
※京都人(伝) 加賀人(馬琴)の二説あり
    明和六年生誕説もあり(伝)
秋圃?歳 若年時円山応挙の門に入る(伝)。
恵斎?歳 安永初年 浮世絵師北尾重政に入門。兄弟子に京伝政演。
1778 恵斎15歳 安永七年 黄表紙風噺本「小鍋立」「はなし」に画く。
「北尾重政門人三治郎十五才画」と署名。
1780
頃~
恵斎17歳
頃~
安永九年頃から寛政六年迄に黄表紙など三百部ほどの挿絵を画く。
1785 恵斎22歳 天明五年八月 「江都名所図会」刊。(「北尾恵斎政美」と署名)
1790 恵斎27歳 寛政二年 「来禽図彙」一帖刊。
1794 恵斎31歳 寛政六年五月廿六日 津山藩松平越後守御抱え絵師となる。(大役人格御絵師・十人扶持)
1795 秋圃27歳 寛政七年 応挙没。以後森狙仙に師事(伝)。
※画道修行の為長崎へ向い、宮島に三年、福岡に三ヶ月滞留。唐津や有田にも仮寓(伝)。
1796 恵斎33歳 寛政八年 黄表紙等の画業を廃す。
1797 恵斎34歳 寛政九年 鍬形氏に改姓。狩野養川院門人となる。
1802 秋圃35歳 享和二年秋 大坂新町呉雀楼にて馬琴に逢う。
太鼓持ち亦介と称し、足斎・衛と号す。(「羈旅漫録」)
※此の年長崎着。江稼圃に師事せんとして果さず(伝)。
1803 秋圃36歳 享和三年 大坂田宮仲宣著「東ゆう子【とうゆうし】」に挿絵「筒井筒」図を又輔の号で画く。(配布資料2参照
同年六月 大坂「葵氏艶譜」刊。双鳩法師と号する。
※此の年長崎にて黒田長舒公に見出される(伝)。
1805 恵斎42歳 文化二年頃 松平定信の命により「近世職人尽絵詞」三巻を製作。
南畝・喜三二・京伝が詞書を作る。
秋圃38歳 文化二年六月 大坂「つはものつくし」刊。(序に「つくしの国なる秋圃が筆の・・・」)
文化二年七月 秋月藩御抱絵師となる。(三人扶持十二石)
1807 秋圃40歳 文化四年二月廿四日と廿六日 江戸にて馬琴を訪う。
「黒田甲斐守様御内 葵衛殿 大坂新町 雀楼にての知る人、その頃は亦介といひし也」(「訪問往来人名簿」)
同年「御膳番」となる。
同じ頃、大坂「わすれくさ」四冊刊。山笠、鷽替え、松囃、ぺーろむ、不知火等九州に因む絵を画く。(「筑前秋月藩中 葵氏」)
1809 恵斎46歳 文化六年 津山藩に「江戸一目図屏風」を製作。
1811 秋圃44歳 文化八年 秋月政変(織部崩れ)
1812 恵斎48歳 文化八年十二月 小従人組入り、士分となる。
1813 秋圃46歳 文化十年七月 斎藤と改姓。「御馬廻頭支配表御番方」となる。
1815 秋圃48歳 文化十二年六月 「葵氏艶譜」補刻本刊。ちぬ翁序に「葵氏は花洛の人、初 足斎、又 双鳩と号す。 後築石に下りて何某の君の籠を得て奉仕す。
秋圃とあらたむ」
同年、警固神社に「猪早太鵺退治図」絵馬を奉る。
1820 恵斎57歳 文政三年 今井伊助二男万吉(廿一才)を養子とする。
1824 恵斎61歳 文政七年三月廿二日没。浅草密蔵院に葬る。
法名「彩淡恵斎居士」。
1826 秋圃61歳 文政十一年四月 隠居。長男りん太郎四人扶持十二石相続。
1838 秋圃73歳 天保九年四月 りん太郎出奔により家名断絶。町絵師となる。
1859 秋圃92歳 安政六年十月十六日没。太宰府光明寺に葬る。