炭鉱札の画像データベースを見る

「はじめに」 松本一郎 『筑豊の炭鉱札』 私家版 1988年 

   しかし炭鉱札はいつでもは現金と交換してもらえず、急用での他行(帰郷)、子供の急病で現金を必要とする場合、納屋頭か炭坑の指定店、又は高利貸から炭券を現金と両替してもらう以外に策はなかった。その場合、二割~三割の日銭を取られ、なかには五割も取られることもあったと言われている。
   中間の大正鉱業が発行した炭鉱札は、直方町又は植木村(現・植木町)で評判も良く、金券として取引されたが、それでも両替三割引で七割の商品取引評価の相場であった。当時にあっては、炭鉱札での「この評価は良い」と古老達は懐旧談で言うが、いかに不合理であったかがうかがい知られる。
   筑豊で炭鉱札発行の早いところは明治18年で、麻生が笠松村鯰田炭坑(後の三菱鯰田炭坑)経営時に発行している。大手の三井・住友もわずかの期間炭鉱札を出してはいるが、当時にあっては開発途上の中小炭山がもっとも多い。『筑豊炭礦誌』(高野江基太郎著)によれば、明治30年当時、炭鉱札が発行されている炭鉱数は約66坑、不詳とされている炭鉱数が約20坑、現金支払いの炭鉱数は6坑である。いかに各炭鉱が斤券を出していたかがこの著書からもわかる。明治中頃から末期にかけて炭価の相場が次第に安定し、印刷技術の進歩とともに炭鉱札も除々に綺麗な造りとなって、中には坑主の定紋や会社のマークを刷り入れた券も見られる。明治末期頃になると現金と引換しない購買券が発行され、この券には金額が表示されて鉱業所内の分配所で物品購買用金券とされた。