鍬形恵斎【くわがた・けいさい】[北尾政美【きたお・まさよし】]

明和元年(1764)~文政七年(1824)
このページをPDFで見る

『繪本吾嬬鏡』の絵     江戸浜町の竃河岸【へっついがし】に生まれる。 俗称に三治郎、三二郎などがある。父は駿州興津(静岡県)出身で、後に赤羽氏の養子となり、 江戸に出てきてからは畳屋を生業とした人である。恵斎は、幼少の頃から絵を好み、 絵の才能を認められて北尾重政の門人となった。初めの仕事は弱冠十五歳で三二郎の名で描かれた 黄表紙仕立ての絵入り咄本『小鍋立【こなべたて】』〈安永七年(1778)刊〉、 今回出品の『はなし』(9. 安永七年(1778)頃 [江戸]刊)の挿絵である。 その後、黄表紙の挿絵を中心に百七十作品余りを描いている。重政の門人には、他に北尾政演【きたお・まさのぶ】(山東京伝)・ 窪俊満【くぼ・しゅんまん】などがおり、この三人で北尾派三羽烏と言われた。天明元年(1781)に重政から 北尾政美【まさよし】の名を貰い、武者絵、浮絵、鳥瞰図などを描いた。この頃の代表作に絵半切れ 『江都名所圖繪【えどめいしょずえ】』(10. 天明五年(1785)[江戸]刊)や 黄表紙『鸚鵡返文武二道【おうむがえしぶんぶのふたみち】』(寛政元年(1789))などがある。
    寛政六年(1794)に、津山藩(岡山県)松平家の新規お抱え絵師となり、翌年、 名前を鍬形恵斎紹真【つぐさね】と改め、狩野養川院惟信【ようせんいんこれのぶ】のもとで、 狩野派の画風を学んだ。浮世絵師からお抱え絵師への転向は、当時非常に稀有なことであった。 お抱え絵師としての恵斎は、寛政の改革の影響もあり、 『略画式』(24. 寛政七年(1795) [江戸]刊)に代表される絵手本類を 多く描くようになる。『略画式』はのちの人物・鳥獣・山水・草花・魚貝などの略画式の原型になるもので、 恵斎は、この一連の作品でのちに「略画式の恵斎」(「恵斎略画式モノ」参照)と呼ばれる地位を築いた。 また略画以外にも、いわゆる当時流行した名所図会の類も多数残しており、「江戸一目図屏風」(文化六年(1809)刊)などがある。 『近世職人尽絵詞【きんせいしょくにんづくしえことば】』(文化元年~三年(1804~6))は 肉筆画の傑作と言われており、恵斎は、この作品で絵師として独自の地位を不動のものにした。 津山藩のお抱え絵師になったが、登用後もほとんど江戸に在住して、津山には文化七年から八年(1810~11) に藩主松平斉孝【なりたか】に随行して一度行ったのみである。文化八年(1811)には小十人組に昇格し、 文化九年(1812)には画号を本姓であった赤羽からとって羽赤と改号した。文政七年三月二十二日に江戸で没した。