長崎・筑前国
長崎
海外貿易港として栄え、異国文化を味わうことができる。海を埋め立てて築かれた出島には、オランダ商館も。出島への立ち入りはできないので注意しよう。
大徳寺
僧月珍が元禄16(1703)年に開山したと伝わる江戸護持院の末寺。瓊の浦の港や新地蔵所、出島を望む長崎随一の景勝地。
寺地に広がる庭園からは、唐人屋敷が間近に見えると聞いたのですが、あいにくの雨で、庭園を見ずに宿へ帰りました。
後日晴れの日に再訪しましたが、西の方に入り江から港口まで隠れるところなく見えて、筆舌に尽くせないほど美しい風景でした。唐人屋敷も手に取るように見え、異国に来たような心地がしました。

長崎湊
オランダ船や唐船が入港 !外海にオランダ船が見えると長崎奉行が検使を派遣し、双方で同色同数の旗を立てる「旗合わせ」等による入港手続きを行った後、入港が許可される。
聖福寺
唐商陳朴純を父を持つ僧、鉄心道胖によって延宝5(1677)年に創建された黄檗宗の寺院。「鉄心の大鐘」として親しまれる梵鐘の豪壮な音色を聞いてみよう!
唐人の船主や舟子ら30人程が集まった関帝祭を見物しました。祠の調度や供え物は、唐風で珍しくとても華やかでした。
その後、唐通事と陪席し、卓子で唐の人々と飲食を共にしました。アラキというオランダの酒を出してもらったり、扇に詩を書いてもらったりして楽しかったです。

彼杵川
大村湾に注ぐ河川。橋、舟はないので上流から三ノ瀬、二ノ瀬、一ノ瀬の3つの渡し場を利用して徒歩で渡ろう。わずかな雨で氾濫する長崎街道の難所のひとつ。
彼杵川の一ノ瀬を渡ろうとしたところ、雨で水かさが増し、急流となっていました。荷物持ちを頼んだ人々が逃げ腰になる中、浅瀬を探し、「いざ、ここから渡れ!」と号令をかけ、「足を踏み違えるな、落ち着いてゆっくりと進め」と励まし、なんとか渡りました。

宰府 関屋
日田街道と太宰府天満宮への道の分岐点。肥前、肥後、薩摩から京、江戸へ通じており、往来が盛んで賑やか。関屋という地名は、かつて刈萱の関があった折に、関守が居住したことに由来。
関屋村を過ぎて、上水城村、下水城村を通り、河原田村につきました。この地の南側に万葉集に歌われた大城山があります。さらに1.3kmほど行くと、雑餉隈というところに出ました。酒肴の他、様々な食物を商う店が多いので、その名がついたそうです。

博多
古くは大宰府の外港として栄え、その後も国際貿易都市として発展。戦乱により荒廃するも、豊臣秀吉が復興を命じ、博多商人の協力の元「太閤町割り」と呼ばれる区画整理を行って再興。
博多の町数は縦横合わせて百八十町あるそうです。通り沿いの町屋は瓦葺で蔵造りですが、それ以外は茅葺が多かったです。名産である革細工と帯地を商う店がたくさんあります。
博多の出口には川があり、橋を渡ると中島町、この町の外れにまた川があり橋を渡ると、黒田公のご城下福岡になりました。

海の中道
玄界灘と博多湾を区切り志賀島まで延びる砂州。志賀島では、天明4(1784)年に百姓甚兵衛が「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見!