W・モリスのケルムスコット・プレス


モリスの葉っぱマーク ウィリアム・モリス 年譜

1834年 3月24日、ロンドン東北郊外にあるウォルサムストウ(Walthamstaw)の「エルム・ハウス(Elm House)」に生まれる。
1847年(13歳) 父ウィリアム死去(享年50歳)。
1853年
(18-19歳)
1月、オクスフォード大学エクセター・コレッジ(Exeter College)に聖職を志して入学。
バーン=ジョーンズ(Edward Burne-Jones)、フォークナー(Charles Faulkner)、フルフォード(William Fulford)らと知り合う。
ラスキン(John Ruskin)を愛読。
1855年(21歳) 年額900ポンドの遺産を相続。
夏休みに、バーン=ジョーンズ、フルフォードと北フランス旅行。聖職者への道を諦 め、モリスは建築家に、バーン=ジョーンズは画家になることを決意。
1856年(22歳) 同人誌『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』(Oxford and Cam-bridge Magazine)をベル・アンド・ダルディ社(Bell and Daldy)より1年間発行。
オクスフォード大学エクセター・コレッジ卒業。
ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)、ラスキンと出会う。ロセッティの影響で画家を志す。
1858年(24歳) 3月、処女詩集『グウィネヴィアの抗弁』(Defence of Guenevere)をベル・アンド・ダルディ社より自費出版。(ケルムスコット・プレス 1892年5月 No.5)
1859年(25歳) 4月26日、ジェイン・バーデン(Jane Burden)と結婚。
1861年
(26-27歳)
1月27日、長女ジェイン(Jane Alice Morris)誕生。
4月11日、室内装飾専門店モリス・マーシャル・フォークナー商会(Morris, Marshall,Faulkner & Company)創設。ステンドグラス、タイル、刺繍、家具などの制作を開始。
1862年(28歳) 3月25日、次女メイ(May Morris)誕生。
1867年(33歳) 1月、第二詩集『イアソンの生と死』(Life and Death of Jason)をベル・アンド・ダルディ社より出版。(ケルムスコット・プレス 1895年7月 No.34)
1868年(34歳) 4月、物語詩『地上楽園』(Earthly Paradise)第1巻(第1部、第2部)をF.S.エリス社(Frederick Startridge Ellis)より出版。(ケルムスコット・プレス 1896年7月-1897年9月 No.41)
1869年(35歳) 11月、『地上楽園』第2巻(第3部)を出版。(同上)
1870年(36歳) 12月、『地上楽園』第3巻(第4部)を出版。(同上)
彩飾手稿本『エイルの住人の物語』(Story of the Dwellers at Ery)、『詩の本』(Book of Verse)を制作。この経験が、後のケルムスコット・プレスに生かされる。
1871年(37歳) 6月、テムズ河上流河畔にある「ケルムスコット・マナー(Kelmscott Manor)」をロセッティと共同で賃借。
妻をロセッティのもとに残して、マグヌソン(Eirikr Magnusson)、フォークナーと夏に第1回アイスランド旅行。アイスランド・サガゆかりの地を訪ね歩いた。
1872年(38歳) 11月、道徳劇『恋だにあらば』(Love is Enough)をエリス・アンド・ホワイト社(Ellis and White)より出版。(ケルムスコット・プレス 1898年3月 No.52)
1873年(39歳) 夏に、フォークナーと第2回アイスランド旅行。
1874年(40歳) 「ケルムスコット・マナー」はモリスが占有することになった。
1875年(41歳) 3月、モリス・マーシャル・フォークナー商会を解散し、モリス単独経営の「モリス商会」(Morris & Company)とする。
1876年(42歳) 11月、モリス最良の長詩『ヴォルスング族のシグルズ』(Sigurd the Volsung)をエリス・アンド・ホワイト社より出版。(ケルムスコット・プレス 1898年2月 No.50)
1877年(43歳) 「古建築保護協会(Anti-Scrape)」を設立。
1878年(44歳) 10月、モリス家はロンドン西郊ハマスミス(Hammersmith)に転居。その邸宅を「ケルムスコット・ハウス」(Kelmscott House)と呼ぶようになった。
1879年(45歳) 夏、全国自由主義同盟が発足、その財務委員となる。
1882年(47歳) 2月、講演集『芸術の希望と不安』(Hopes and Fears for Art)を出版。
1883年
(48-49歳)
1月13日、民主連盟(翌年社会民主連盟となる)に加入。社会主義者であることを公言。
1884年
(49-50歳)
1月、社会民主連盟機関誌『正義』(Justice)創刊。
12月27日、クレイン(Walter Crane)、バックス(Belfort Bax)らと共に社会民主連盟脱退。
1885年
(50-51歳)
1月、社会主義同盟を結成。
2月、モリスを編集長として社会主義同盟機関紙『コモンウィール』(Commonweal)創刊。
3月、『コモンウィール』に『希望の巡礼者』(The Pilgrims of Hope)を連載開始。
1886年(52歳) 11月、『コモンウィール』に『ジョン・ボールの夢』(The Dream of John Ball)を連載開始。
1888年(54歳) 4月、『ジョン・ボールの夢』をリーヴズ・アンド・ターナー社(Reeves & Turner)より出版。(ケルムスコット・プレス 1892年9月 No.6)
5月、第2講演集『変革のきざし』(Signs of Change)をリーヴズ・アンド・ターナー社より出版。
11月1日、第1回美術工芸展(Arts and Crafts Exhibition)。
11月15日、ウォーカー(Emery Walker)の印刷についての講演を聞き、タイポグラフィーと印刷に本格的興味を抱く。
12月、最初の長編散文ロマンス『ウォルフィング族の家の物語』(A Tale of the House of the Wolfings)をリーヴズ・アンド・ターナー社より出版。
1889年(55歳) 11月、物語と詩『山々の根』(The Roots of the Mountains)をリーヴズ・アンド・ターナー社より出版。モリスは、ケルムスコット・プレスへの意欲を自覚した。
1890年
(55-56歳)
1月、『コモンウィール』に『ユートピア便り』(News from Nowhere)を連載開始。
11月、社会主義同盟を脱退してハマスミス社会主義協会を結成。
『ユートピア便り』をロバーツ・ブラザーズ社(Roberts Brothers, Boston, U.S.A.)より出版。(ケルムスコット・プレス 1893年3月 No.12)
活字デザインを始め、ケルムスコット・プレス(Kelmscott Press)発足の準備にあたった。
1891年
(56-57歳)
1月12日、自宅近くにコテージを借り、ケルムスコット・プレス設立。
5月、『輝く平原の物語』(The Story of the Glittering Plain)(No.1)をケルムスコット・プレスより出版。
10月、『折ふしの詩』(Poems by the Way)(No.2)をケルムスコット・プレスより出版。
1893年(59歳) 10月、『ゴシック建築』(Gothic Architecture)(No.18)をケルムスコット・プレスより出版。
1894年(60歳) 10月、『世界のかなたの森』(The Wood beyond the World)(No.27)をケルムスコット・プレスより出版。
1895年(61歳) 9月、『チャイルド・クリストファーとうるわしのゴルディリンド』(Child Christopher and Goldilind the Fair)(No.35)をケルムスコット・プレスより出版。
1896年(62歳) 6月、『世界のはての泉』(The Well at the World's End)(No.39)をケルムスコット・プレスより出版。
10月3日、正午近くにハマスミスの自宅で死去(享年62歳)。
1897年 7月、『不思議な島々のみずうみ』(The Water of the Windrous Isles)(No.45)がケルムスコット・プレスより出版される。
1898年 以下、残務整理にあたったコッカレル(Sydney Cockerell)の手によって、ケルムスコット・プレスより出版される。
1月、『十五世紀ドイツ木版画集』(Some German Woodcuts of the Fifteenth Century)(No.49)
2月、『引き裂く川』(The Sundering Flood)(No.51)
3月、『ケルムスコット・プレス設立趣意書』(A Note by William Morris on His Aims in Founding the Kelmscott Press)(No.53)の出版をもってケルムスコット・プレスは閉鎖される。