W・モリスのケルムスコット・プレス


モリスの葉っぱマーク ウィリアム・モリス

 芸術家になるまで

W・モリスは1834年3月24日ロンドン郊外ウォルサムストウのエルム・ハウスで生まれた。父はシティで活躍する証券仲買人で鉱山株主であった。オクスフォード(エクセター・コレッジ)で教育を受け、初めは英国国教会の司祭を目指すが、1854年、55年の二度のフランス旅行で様々な経験をし、美の種々相を目の当たりにした結果、聖職者への道を諦め、建築家になるべくオクスフォードのストリートのもとで8ヶ月間修行した。56年には『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』(12ヶ月で廃刊)を創刊し、詩、エッセイ、物語などを寄稿した。58年にはD.G.ロセッティやバーン=ジョーンズらと共にオクスフォードの学生会館のフレスコ画制作に参加した。また、『グウィネヴィアの抗弁、その他の詩』を出版。彼の詩の最良のものが多数含まれているといわれ、背景として中世的雰囲気が濃厚である。

 様々な活動

1859年ジェイン・バーデンと結婚した。ジェインはラファエル前派の画家達が競ってモデルにした美女であった。結婚を機に住居を新築し、これはウェッブのデザインで「赤い館」と呼ばれた有名な建築物である。内装はすべてモリスが手がけたが、既製の家具で満足のいくものを見出せず、これが後に1861年4月モリス・マーシャル・フォークナー商会(1875年モリス商会となる)を設立する契機となった。商会では家具、プリント布地、タピストリー、壁紙、ステンド・グラスなどが生産され、一般の人々にも強いインパクトを与えたが、実際に手に出来るのは一部の金持ちだけだという厳しい現実を認識させられることにもなった。1867年『イアソンの生と死』を出版、1868年から70年にかけて彼の詩人としての地位を不動のものとした『地上楽園』を出版した。1871年にはロセッティと共にケルムスコット・マナーの共同賃借権を取得した。72年『恋だにあらば』を出版、また71年と73年にはアイスランドを訪問し北欧文学への興味をかきたれられた。

 晩年

1877年には古い建築物の醜悪な修復の阻止を目的とした古建築保護協会を創設した。この頃から90年頃までモリスの活動は政治色を強めていく。彼の最終目標は自らと他の人々とを隔てる経済的な障壁を壊すことであった。理想の社会実現は、初期には芸術を通じて可能だと考えたが、後には政治的手段つまり社会主義の達成が不可欠だと考えるようになった。1883年民主連盟(翌年、社会民主連盟と改称)に加入、この頃から自らを社会主義者と称するようになった。84年連盟分裂、モリスは社会主義同盟を設立、機関誌『コモンウィール』に「ジョン・ボールの夢」(1886~87)、「ユートピアだより」(1891)など自らの政治信条を吐露した作品を寄稿した。彼はまた『ウォルフィング族の家の物語』(1888)、『輝く平原の物語』(1891)、『世界のかなたの森』(1894)、そして死の直前に完成させた『引き裂く川(サンダリング・フラッド)』(1898)といった北ヨーロッパを舞台にした歴史的ロマンスも書き、これらは全てモリスが1891年ハマスミスに設立したケルムスコット・プレスで印刷された。モリスは、この世には美しいものが二つあり、一つは美しい建築物、もう一つが書物であると信じていた。ケルムスコット・プレスは、「理想の書物」を実現すべくモリスが自らの全てを注ぎ込んだ印刷工房だと言える。産み出された素晴らしい書物群の中でも『チョーサー著作集』(No.40)はケルムスコット・プレスの華・真髄といってよいだろう。1891年病に倒れてからは完全に体調を回復することはなかった。1896年10月3日、ハマスミスの自宅で死去、10月6日ケルムスコットの教会墓地に埋葬された。享年62才、授かった稀有の才能を見事に燃やし尽くした生涯だった。